お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

2006-03-12

[]伝統 16:23 伝統 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 伝統 - 西川純のメモ 伝統 - 西川純のメモ のブックマークコメント


 本日の朝の番組で私の好きな作家が出ました。その人の本は大好きです。その人の青春時代留学の経験談が書かれた随筆は、絶品です。最近、その人の「日本という国」に関する本が88万部 も売れました。それに関してテレビで出ました。期待して聞きましたが、ガッカリでした。その人の主張の中でガッカリしたのは、二つです。第一に、「伝統は理由無く、続けるものであるので、その是非に関して議論するなど論外である」と主張している点です。第二は、「現首相によって日本は悪くなった」という点です。

 フランスフランス語を守るために外来語を拒絶する政策をしています。しかし、フランス語というのは「いつ」の時点のフランス語なのでしょうか?全ての言語は、それ以外の言葉を受け入れて成長しているものです。考えてください、日本語のカタカナで表されている言葉を、拒否して日本語は成り立つでしょうか?また、現在漢字で使われている言葉の中には、江戸から明治になる際、福沢諭吉をはじめとする文明開化の時代の先人が、外来語をもとに発明した言葉が少なくありません。現在伝統と言われる文化も、その当初は革新でした。古くは天台宗、真言密教革新でしたし、浄土宗浄土真宗、法華宗は人死にがあるほどの革命でした。能、歌舞伎落語も、出自はいかがわしい芸です。伝統を守るという主張を言う人に聞きたいのは、「いつの時点の伝統を守りたいのですか?」というです。そして、その時点が、何故、特別なのかを聞きたいと思います。人類祖先は樹上生活をしていたサルです。それが、地殻変動によってサバンナが広がり、その結果、木から下りたサルが祖先です。木から下りたサルに対して、樹上生活のサルが「数百万年の伝統を守っていない」と主張したらどうなんでしょう?馬鹿馬鹿しいことです。私は長い時間生き残ったものには、それなりの理由があり、敬意を表すべきだし、特段の理由が無ければ、それを続ける方がいいと思っています。何故なら、妥当性があるから生き残ったのですから。でも、だからといって、無思考で続けるべきとは思いません。必要があるとき、「何故、それが続いたか」そして「今後も続けるべきか」を議論することは有効だと思います。生き残る伝統は、そのような議論にも生き残るし、議論に負け一時的に失われても、次の時代に復活するはずですから。伝統とは、それほど強いものだと思います。いや、それほど強いものが伝統だと思います。

 アシモフというSFに「銀河帝国興亡史」というSFがあります。その本の中にミールというスーパーマンが出来ます。その人は凄い!だって、その人は銀河の広がる星々をどんどん征服していくんです。日本を統一する秀吉、またアジアに広がる帝国を築いたチンギスハーンというレベルではありません。しかし、興味深いのは、その人の死後、その人の行ったことは小さな揺らぎとして時代の流れの中で吸収されたとアシモフは書いています。同じようなことが司馬遼太郎にも言えます。私は司馬遼太郎歴史小説が大好きです。彼があれだけ支持されているのは、歴史を個人のスタンドプレーの蓄積として記載するのではなく、時代の必然性が一人の行動に表れたと記載している点だと思います。日本国首相出来ることなど、たかがしれています。だって、日本国首相が何をやろうと思っても、それを実現するためには何万、何十万という大中小の権力者(木っ端役人も含みます)が仕事をしなければなりません。 そして、その人たちには家族があり、親戚があり、友人がいます。考えてください、自分の家族・親戚・友人に大中小の権力者を持たない人って、日本に何人いるでしょうか?結局、大中小の権力者は、関連する人たちの考えに縛られています。

 首相が1000やれ、と命令しても、それを受け取った人が1000やるか999やるか997やるかは(逆にいえば1001やるか1003やるかは)、その人判断です。そのような人の命令が、次の人が受け取ります。そのような伝言ゲームが10ステップ、100ステップ続いたら、どうなるかは理の当然です。仮に、その時代の数万、数十万の人が1000をやた ったとしても、次の時代の数万、数十万の人がそうするとは思いません。

 つまり、現状の姿は一人の権力者一人の責任ではないと思っています。そして本当に時代を超えた必然性がなければ、100年の単位で考えれば、元に戻ります。日本という国を議論する人の議論が、なんともちっぽけな視野に縛られていることに、ガッカリしました。