■ [報告]恩師の職場
一昨年に、修士・博士と西川ゼミのKubさんを助教授で採用しました。本当に忙しい状態です。彼は現場でも仕事を請け負っていましたが、それ以上に大学では仕事を請け負っております。大学のある先生はKubさんに、「バカだな~、恩師の職場に行けば、こき使われるのは目に見えているのに」と言っていました。上越教育大学で一歩先に人事を起こしていたので、他大学から声がかかっていても、「既に人事は決まっていますので」とお断りすることが出来ました。よかった、と思っています。能力のある方ですので、私どころか、学長・副学長にもこき使われています。さすがに私も、「もうちょっと待ってね、一緒にやれる人を採用するから」とKubさんに言っていました。
教職大学院設置に関わって、修士・博士で西川ゼミで、修士ではKubさんと同期のMizさんを準教授(助教授の名称が変わりました)として採用しました。ただし、仕事が同じでやる人が二人になれば仕事量は半分になりますが、そうなりません。お二方とも、西川という生き物の生態は熟知されているはずです。「日本を変える~」と叫び回っている人の職場に来るのですから。
私は人から、KubさんやMizさんに関して「どんな人?」と聞かれたとき、「西川ゼミで、修士と博士を過ごした人だよ」と説明します。私を知っている人は、能力ばかりではなく、人格に関しても、そうとう感心してくれます。あはははは
■ [ゼミ]ゼミ生へ
今は機械で判断していましたが、昔は人が電車の切符をチェックしました。電車から降りる数百、数千の人の流れの中で、不正乗車を見抜いていました。何故、そんな神業みたいな事が出来たのでしょうか?答えは、切符ではなく、人を見ていたのです。不正乗車をする人には、心の迷いがあり、それが行動に現れます。私も近いことが出来ます。それはゼミ生が研究を相談に来たとき、私は5秒以内に、ゼミ生が一言も発する以前から、それが良い研究か否か、私が相談を受けるべきか拒否すべきかを判断します。それはゼミ生の目を見れば分かるからです。
一人一人の研究を最も分かる人、そして分かるべき人は私ではありません。当人です。私の数百、数千倍の時間と手間をかけて、その研究と向き合っているはずです。従って、良い研究であれば、その目は自信にあふれており、言いたくて、言いたくてしょうがない状態です。そんなの小学生だって分かります。逆に、自分の研究に自信がない時、自分で何も考えず、教師のアドバイスを得ようとする場合、恥ずかしくて、恥ずかしてしょうがありません。私の目を見られずにいます。これまた、小学生だって分かります。ちゃんと考えてきた相談の場合には、ちゃんと相談を受けます。ただし、大抵の場合、「それでいいんじゃない」と言えばいいだけです。だって、一番考えているのは本人ですから。
自分の研究が成功するか、不安かもしれません。でも、私は皆さんの研究テーマが失敗することを想像できません。意外かもしれませんが、「『学び合い』が失敗した~」と思った研究の方が、素晴らしい研究に成長しました。だって、予想したとおりの結果が出たとしたら、既に我々が理解している研究の延長上の結果なんです。理解不能であり、失敗と思われる結果が出たときこそ、新たな知見が生まれます。かってMiさんは実践研究から憔悴した状態で戻ってきました。また、K閣下の場合も、失敗したと報告してきました。学部生のSの研究では、学び合いが成立せず、惨憺たるクラスの実態をデータとして持ってきました。こんな例は数限りなくあります。その度に、「今はそう見えるかもしれないが、もう一度、データを見直して欲しい。我々の方向性に間違いはない。私を信じられなくても、我がゼミのOBである素晴らしい教師の成果の蓄積を信じて欲しい」と言いました。そして、素晴らしい結果を明らかにしました。もし、『学び合い』の文化にどっぷりつかり、様々なサポートを受けている皆さんが、仮に学び合いを成立させ得なかったとしたら、そりゃ、もしかしたら今までで一番凄い発見だと思います。あははははは。そんな理解と覚悟で私は皆さんの研究と関わり、そして任せています。そして、皆さんが絶対に最悪な結果にならないようなリスク管理をしております。
安心してください。私は二十数年間に、数百の学生・院生の研究指導をしております。私は小学校、中学校のプロではありません。しかし、大学教育のプロだと自負しております。「私を信じられなくても、我がゼミのOBである素晴らしい教師の成果の蓄積を信じて欲しい」と願います。そして、攻めましょう!日本のため、そして、自分のために。