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2008-06-29

[]徳 21:35 徳 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 徳 - 西川純のメモ 徳 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/janglejap/20080628を読んで、「徳」を感じます。広げられる人には徳があります。私には徳はないと反省することしきりです。

[]何故ぶれないか? 18:22 何故ぶれないか? - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 何故ぶれないか? - 西川純のメモ 何故ぶれないか? - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は『学び合い』に関してぶれません。また、判断も速い。理由は何か考えるとき、「考え方」に立ち戻って考えるからです。結局、『学び合い』は学校観・学習者観の帰結です。運用でそれから外れることはあり得ますが、運用が基本と考えれば、あっという間に元の木阿弥になってしまいます。

 教材内容のレベルアップが「みんな」と矛盾無くできるならばOKなんです。そのような方もおられます。でも、矛盾が生じる可能性があるならば、教材内容より「みんな」を優先すべきだと思います。むしろ、「みんな」のレベルアップ、すなわち関われる人たちの多様性、人数を増やすことのほうが意味があると思う次第です。

 本日のメモは学校教育の目的は何か、それに対してのシンプルな回答なんです。(これまた、レスになったよねAさん)

追伸 言うまでもなく私自身も「考え方」から外れる行動をします。特に、私の実践場である西川研究室の運営には「たびたび」やらかします。しかし、その場合は「西川先生、『学び合い』の考え方から外れていますよ」と指摘されます。個々の運用自体は大抵は合っていると思います。しかし、同志の指摘によって、自分は「考え方」はら外れた運用をしていることを自覚するので、運用が暴走しません。ちなみにゼミ生からそのように指摘されることを無情の喜びと感じます(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20070619)(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20070209

[]Aさんのお求めに応じて(その1) 10:55 Aさんのお求めに応じて(その1) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - Aさんのお求めに応じて(その1) - 西川純のメモ Aさんのお求めに応じて(その1) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある方(Aさんとします)から、社会科に特有の目的があることのか、という質問を受けました。以下は、Aさんのような『学び合い』のビギナー相手の説明であることを強調します。充実段階、発展段階の同志に対しては別な説明なることをご理解下さい。

 私の理解です。

 全ての教科においては、固有の課題があります。例えば、私は国語の「深い読み」、音楽の「響き渡る音」というものをやり玉に挙げまが、それが大事であることを否定しません。しかし、私は多くの方々にはそれを勧めず「クラス全員が教科書○ページから○ページをみんな分かるようにしなさい」という課題を勧めます。理由はあります。理由は、指導要領の文面を、教師がそれを子ども全員に伝えられるにはものすごく大変だからです。おそらく、不可能でしょう。なぜなら、教師は一人で子どもは三十人、そして認知的レベルは多様で、人の相性は多様、それが時々刻々変わって異からです。学習者が達成すべき課題を理解できなければ、『学び合い』は成立しません。

 しかし、混乱させることを言いますが、不可能ではありません。それには二つあります。第一は、もの凄く教材の能力を高め、教授のテクニックを駆使できる人なれば、全員ではなくともかなりの割合まで伝えることが出来ます。出来る人もいます。それは、とても大変で、多くの人には一生涯不可能な段階だからです。そして、それが出来る人であっても、1年間の授業全てに出来るわけではありません。そして、教材・教授にのめり込めば、いつのまにか我々が一番大事にしている「みんな」に割くべきエネルギーが低下するからです。

 もう一つの方法は、『学び合い』です。指導要領に書いているレベルのこと、また、その先のことを理解しているのは教師ばかりではありません。また、最小限の情報でそれを理解できる学習者は少なくありません。だから子どもを通して求めればいいのです。ただし、「教材・教授」のしっぽがあると、色々と蘊蓄(うんちく)を語りたいという欲求があります。こりゃしょうがない、私もそうです。でも、その蘊蓄を一定時間語ることによって目的を理解する子どもの増加量は、時間が述べるほど低下します。しかし、蘊蓄を語り出した教師はなかなか止められません。では、どうするか。それは指導要領の文面をそのまま(小学校高学年以降は漢字にルビもふらずに)子どもに与えて、これを達成することと求めるのです。これが出来るだけ子ども集団が成長しているならば可能です。でも、それに達している人は、それほど多くありません。

 それ故、私は「クラス全員が教科書○ページから○ページをみんな分かるようにしなさい」を勧めている次第です。(Aさん、これでお応えになりました?)

[] Aさんのお求めに応じて(その2) 10:55  Aさんのお求めに応じて(その2) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク -  Aさんのお求めに応じて(その2) - 西川純のメモ  Aさんのお求めに応じて(その2) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 上のメモに関連して、加筆します。

 学校教育の目的が人類が営々として築きあげた成果を、次の世代に伝えることであることは言うまでもありません。しかし、人類が築きあげた成果を全て伝えられるわけありません。当然、選択がかかります。ではどれほどのものでしょうか?学校教育で扱うものの大多数は伝える必要のないものです。これは過去のメモに書いたとおりです。例えば筆算は大人になってからまあしないでしょう。電卓ですみます。よく筆算によって計算の仕組みが分かるからという方がいますが、それなら何故、代数学の群環論を学ばないのでしょうか?足し算の仕組みを分かるには、あのレベルが分かることだと私は思います。漢字の書き取りだって、ワープロが発達した現在は「読み」が出来れば「書けなくても」大丈夫です。毛筆を必要とするのは芳名帳のみの時代に、何故、筆順が必要なのでしょうか?小学校のこのレベルのことにさえ疑問を呈することが出来るとしたら、中学校・高等学校は悲惨なものです。以前、保護者に学校教育で学ぶことが大人になって役に立つかを聞いたところ、あまり高い評価を得ませんでした。そして、同じ調査を教師対象に実施しましたが結果は保護者と同じ結果でした。つまり、そのことが本当に必要だと熱く思っているのは日本の人口の万分の一(いや百万分の一)以下と言えるでしょう。その程度のことを他人の子どもに求める権限は誰にもありません。

 教師は子どもに求めることを定めているのは指導要領なのです。そして、その定めていることが暴走しないように定められており、それを使うことを定められているのは教科書です。だから教科書を理解することというレベルは妥当だと私は理解しています。だから私としては「そんなの必要かな~?」と思っていますが、筆算や書き順も勉強することを否定しません。

 もちろん、指導要領の定めを各教師が受け止め、教科書を理解するレベルを超えたことを具現化することを否定するわけではありません。ただし、その場合は教育の目的に照らして、それが妥当であることを説明できる必要があると思います。教育の目標は教育基本法の第1条に定められています。そこには「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とあります。このことに対して、応えられる必要があります。私は理科教育で語られる様々な目的論を吟味しました。そして、結果として上記に結びつけられる国民(理科人ではありません)が理解し得る説明は出来ないと結論を出しました。これは他教科でも同じだと思います。もう一つ、この第1条で定められているのは、国民が等しく学ぶべきものを定めているのです。従って、自身が子どもに与える課題は、全員が達成できる課題であらねばなりません。6、7割が分かり、十割が分かった気になるレベルでは駄目なのです。従って、クラス・学校の状況・教師の能力によって与えられるレベルは変わります。しかし、上記二つを満たすことを厳しく自身に求めれば、内容に深くなることは出来ないと思います。私は、むしろ「みんな」にエネルギーを割くべきだと思っている次第です。(これまたAさん、分かった?)