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2008-06-30

[]教材研究 22:04 教材研究 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教材研究 - 西川純のメモ 教材研究 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日のメモに対するコメントに触発されて教材研究に関してメモります。

 私の生涯で、教材研究に関して「最高」と感じた人は二人です。第一は、卒業研究の指導教官であるI先生です。I先生は生物物理学の専門家で、私との会話の殆どは物理学の言葉でした。ところが、生き物に関しての話をさせると深みがありました。ある時、下田に臨海実習に行ったとき寿司屋でおごってもらいました。その際、刺身が出たのですが、何の刺身か分かりません。そのことが話題になったとき、I先生が静かに語り始めました。I先生は私たちの五感で認識できること、また、系統分類学の基礎的知識を組み合わせてその刺身が何であるかを解き明かしました。これほどまで生物学が身近に感じたことはありません。その他にも、ふと目の前にある生き物を話題にすると、そのようなことが度々です。また、最近退官された植物学のD先生もそんな先生です。私が理科コースだったとき、朝のお茶の時間を殆ど毎日一緒に過ごしました。そこで何気なく植物のことが話題になると、これがまた深い、深い。話がとぎれないのです。それが何年も続いても、それがつきません。両先生とも、学問が日常にまで染み渡った人です。こんな人になるには、生物学の研究者となり、その研究を日常においても思いはせるような人でなければならない、と思いました。

 高校の教師になって、高校の先生方の研修会に参加します。また、合宿にも参加しました。その先生方の教材の話はつきません、下っ端の私はただただ聞くだけです。夜になっても、深夜になっても尽きません。最初は驚愕・畏怖でした。しかし、聞いているうちに嫌になってしまいました。要は「俺はね、こんなことを知っているんだぞ~」という自慢話なんです。小中の授業検討会でもよくあります。授業者の実践とは関係なく、「私はこんなことを実践しました」と自慢する人ってあります。あれです。同じ生物学の話なのですが、I先生、D先生の話とは違うんです。両先生の話の場合は万巻の書物、長年の経験に基づいており、それを自身で咀嚼した話であり、「どうやったらこんな話が出来るんだろう・・・」と思うような話です。ところが自慢話で聞く話は、学部で生物学を学んだ私のレベルでも、「あの手の本には書いてあるだろうな~」と想像できるレベルのことです。まあしょうがありません。生物学者と違って、部活指導や校務分掌や生徒指導や・・・がある高校教師なのですから、生物学者と同じレベルは無理です。でも、そのレベルのことと得々と話している人を見ると、「理学部博士課程に入り直して、生物学者になったら・・」と感じます。

 教師特有の教材の知識もあります。理学ではあまり扱われず、その種の生物学はないと思われる知識です。が、それも陳腐に感じます。私の学んだ大学院である筑波大学では1960年代、70年代の欧米のカリキュラムを集中的に教えてもらいました。PSSC、CBA、BSCS、ESCP、ナフィールド・・・、現在、このことを知っている人はどれだけいるでしょうか?大学院にはその原典が何気なく置いてあります。それらは、数千・数万の科学者・心理学者・教育学者・教師が数十億・数百億のお金をかけて作り上げたカリキュラムです。ちんけな教材研究とはレベルが違います。私の勤めた高校は歴史のある高校です。理科室にはその当時の翻訳本や、上記に触発された日本の本が山ほどあります。また、筑波大学の図書館には明治初年の文献が山のようにあります。江戸末期から明治初年の教科書は非常に参考になります(今の教師で舎密、窮理と書いて、何のことか分かるだろうか・・・・)。当時の血液の実験などは素晴らしい。その当時の技術力で実現できたのですから、現在では本当に簡単に出来て、かつ、本質的な教材・教具の宝庫です。私は職業柄色々な教材研究を見ますが、不遜ながら「陳腐」と感じます。このような引き出しがいっぱいあると授業の展開に幅が出来ます。教材を開発する時間があったら、過去の成果を学ぶ方が良いと思います。これは理科以外の教科においても、五十歩・百歩だと思います。そのような教材研究を見ると、「あなたにとってはお勉強にはなったかもしれないけど、研究レベルではないな」と思います。

 ということで私は教材研究を「全く」バカにしていました。ところが、そうではない、ということを『学び合い』によって学びました。それは、教師が教材研究をするのではなく、子どもが教材研究をすることです。代表的なある同志のメールを以下に紹介します。その同志は、夏休みに洗脳旅行をして、戻ってから『学び合い』を実践しました。その経験から、「私自身が授業教材研究をするのが楽しくなってきた。」とメールしてきました。その説明です(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20060914)。

 『教材研究が楽しくなってきたと書きましたが,やはりそれはあくまでも教材研究をしたから子どもが分かる授業ができるわけではなく子どもを信じて,活動させたときに子どもが考えている世界が私自身どのようにつながっているのか先が知りたくなり,教材研究をしたいと思っているという感じです。教材研究をそんなにしなくても本時や単元の目標にある終着点に子どもたちは自分たちで着陸できると思いますよ。(夏休みに上越にいたときはそのように信じきれなかったけど・・・)ただ,教材研究をして子どもを信じた(?)授業をすれば,もっと高い内容を習得することができる目標を設定できるし子どもたちもその目標に基づいた問題を自分たちで解決できると思います。はじめに教材研究ありきだと子どもたちがひいてしまう授業になる気がするし,私はこれまでそんな授業をしていたのだと思います。今だからよ~~~~くわかります。昨年,子どもたちがすごいところまでたどり着いたと思っていた授業があったんですが,そのあとに「これでよかったのか?」と感じていました。それはやはり,一部分の子が引っ張っていた授業であり,他の子達は難しくて,あまりおもしろくなく,ちょっと疲れた授業だったのだろうとおもいます。今,その単元の授業をすれば全然違う形になると思います。今週は改めて西川研のみなさんに感謝する一週間でした。ありがとうございました。担任のほうがやりやすいと感じているのは今もかわりませんが,専科でも私の授業・教育についての文化が伝わり,その時間に浸透していればできます。』

 これが私の納得できる教材研究です。つまり、教師の仕組む教材研究は私にとっては陳腐です。しかし、子どもたちが燃えに燃えたときの教材研究は私にとっては驚異であり、喜びです。実は、子どもたちがどれほど燃える教材研究を出来るか、そこにその人の教材研究の力があります。それは小中高だけはありません。数学においては「良い問題」を考えられる人が、良き後進を育てることが出来るのです(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080512)。これが充実段階、発展段階の同志へのメモです。

 とんたんさんやKさんなどの多くの同志には、このレベル以上の成果を「期待」している次第です。