■ [大事なこと]校長の喜び
管理職のなり手が無くて困っている、という都道府県もあります。おそらく、今のままでは広がりそうですね。でも、そうなってもしょうが無いように思います。校長が校長としての喜びを感じるとしたら、自分なりの学校作りが出来ることです。が、3年、いや2年で異動するという都道府県では、それはよほど意識しないと無理ですね。だって、普通の校長は、初年は自分の意見を押さえ、2年目に徐々に出す。でも、2年目はほとんど形になりません。よほどうまくやって3年目に形になる、で異動です。
多くの校長は自分の考える学校創りの実感を味わうことは出来ずに退職するのでは無いでしょうか?
給料が劇的に上がるわけではありません。嫌な立場になります。だったら生涯一教師のほうが良いと思う人が多くなるのは当然です。
でも、校長だけが出来ることがあります。そのことをやりたいと願うならば、校長は魅力的な職業だと思います。
最近学びに来た校長からメールをもらいました。二人の教諭の方をつれての研修旅行です。そのレポートです。
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上越教育大学大学院
教授 西 川 純 先生
遅くなりまして申し訳ございませんでした。
3人分のレポートを添付させていただきました。
最初、かなり気を遣って書いていたのですが、最後の当たりは各人とも鬱憤がたまったのか、好き放題に書かせていただきました。(笑)
帰ってきてすぐにA・Bの二人で授業を始めました。
A先生は社会科で、貿易を扱う単元のまとめのテストをワークシートとして扱い
全員で様々なものを調べながら、素晴らしい『学び合い』を展開してくれました。
この中で、普段であれば10分もすればお手上げ状態で残りの35分を何もしないで過ごすであろう子が、生き生きと周りとコミュニケーションを取りながら頑張っている姿を見て、改めて『学び合い』の良さを認識しました。
B先生は算数で、平行と垂直の単元の1時間分を扱っていました。
このクラスで、算数の不得意な子(Zさん)が、たった一人で取り組みはじめ、しかも本当はわかっていないのにわかったつもりになって名札をひっくり返していました。
ニコニコして周りに教えに行ったZさんでしたが、その説明がしっかりしていなかったため、一緒に教えていた子が「Zさん、これどうやってやったの?ちょっとやってみて」と、Zさんを彼の机のところに連れて行って説明を求めました。
すると、やっぱりできていなかったのです。
「Zさん、ちゃんとわかっていないね。」といって、その子はZさんに付ききりで教え始めました。責める感じは一つもありませんでした。
Zさんの集中力が切れかけました。すると周りにいた子ども達が、「大丈夫だね。時間まだたっぷりあるし」といって慰めました。中には、頭をなでてあげる子も現れました。
そうこうしているうちに、できた子が増えてきたので、Zさんの周りにたくさん子どもたちが集まって来ました。すると、交通整理?をする子が出てきました。(あんまりいっぱいいってもだめなので、ちょっとはなれよう!)すると数人を残して、あとの子はじゃまにならない距離まで離れました。離れて遊び出したかといえば、不思議なことに誰一人、関係のないことを言ったり、遊び出したりする子はいませんでした。遠巻きに見守ると言った感じで見ていました。
Zさんができたとき、子どもたちはとても喜びました。
ところがここでさらに事件が…。
あと4分というところでXさんが三角定規の使い方を間違えて、というより、三角定規を使わないで描いていたことが判明。
「Xさん、それでは、だめ。ほら、こっちに来てやろう!」ということで、そこにまた輪ができはじめました。全員達成が危ぶまれる情況になって、Xさんを責める子が出てきました。すると、学級一のガキ大将的存在の子が「責めない、責めない。」と悠長に言って歩くのです。
時間切れになると、子どもたちが先生にあと一分だけくださいと懇願。
B先生、じゃぁ、あと一分だけだぞと許す。
すさまじい活動が展開され、見事全員達成!自然とみんなで拍手していました。
B、感動して泣いていました。
西川先生、日本の教育を変えたいです。
二人の授業をみながら、真剣に思いました。
長くなりました。
どうか良いお年をお迎えください。
ありがとうございました。
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ここにある子どもの姿、それは『学び合い』では毎度のドラマです。ですので、私にとっては想定内です。が、私が感激し、涙を流したのは、以下の2行です。
西川先生、日本の教育を変えたいです。
二人の授業をみながら、真剣に思いました。
もし、自分の教え子、それも自分が担任している時に分からせる程度だったら、今の授業でも、それなりには出来ます。もし、自分の教え子の生涯の幸せを願うならば、今の授業では無理です。それには『学び合い』が必要だと思います。でも、それだったら教諭でも十分です。
しかし、管下の職員の幸せを願い、その職員の管下の数百人の子どもの幸せを願えるのが校長の幸せなのです。その幸せを感じられる人がいることを、共感し感激したのです。そして、その先には、まだ見ぬ多くの教員と子どもの幸せを妄想できる。
あ~、この喜びを知る校長が日本にどれほどいるだろうか・・・・
■ [大事なこと]教科書
学習指導要領が我が国にあります。これに異論を唱える人がいますが、私は必要なことだと思います。その学習指導要領が主たる教材である教科書を決めている。これが無くなったらどうなるか?
アメリカには天地創造説に基づく教科書があるのです。というより、そっちの方が多いともいえるほどです。何か国際問題が起こると、週刊誌ごとに様々に書きます。中には眉唾物も少なくありません。あのレベルの教科書がOKになったらどんなことが起こるでしょう。
もっとありえることは、教科書どんどん受験に対応するはずです。参考書・問題集との差が無くなります。私立中学校の入試問題集を読んだことがありますか?その中には珍問ありますよね。あれが満載の教科書になったらどうなるでしょうか?圧倒的大多数の子どもはちんぷんかんぷんですよね。
もしデジタル教科書が一般的になったら、教科書の外にあるコンテンツの方が重要になり、それは検定外です。極論すれば、教科書は学習指導要領の原文をコピーした10ページぐらいの冊子にすることも可能です。そして本体は検定外のネット上のコンテンツにすることも可能です。そうなったらどうなるのか?と思うのです。
そうなったとき、国の学習指導要領の守り手は教師しかありません。
が、日本の教師の99%以上は学習指導要領を馬鹿にしているし、読んでいません。これは困ったことです。
たとえば、昭和52年の小学校学習指導要領理科では、「観察,実験などを通して,自然を調べる能力と態度を育てるとともに自然の事物・現象についての理解を図り,自然を愛する豊かな心情を培う。」とあります。現行は「自然に親しみ,見通しをもって観察,実験などを行い,問題解決の能力と自然を愛する心情を育てるとともに,自然の事物・現象についての実感を伴った理解を図り,科学的な見方や考え方を養う。」とあります。
注目すべきは「観察、実験などを通して」が「観察、実験などを行い」に変わっている点です。実験観察をしなければならなくなったのです。この表現を変えるために、文科省は膨大な予算を確保し、確実に実験を行えるようにしたのです。
また、アブラナの花を観察するというのは定番です。もし、ある子どもが5枚の花びらのアブラナを見せたら、教師はびっくりしますよね。そして、「4枚が正解」と言いたいところですよね。でも、学習指導要領を読めば、アブラナの花びらを4枚だと教える必要は無いのです。重視すべきは雄しべと雌しべの役割を学ばせ、それとの関連で花びらと萼の存在を認識させればいいのです。また、十歩譲ったとしても、生物の学習では「共通性・一様性」は「多様性」と常に一対です。つまり、5枚の花びらが出てきたら、困ったことでは無く、喜ぶべきものです。そして、「花びらが4枚のが多い」というのが正解です。むしろ多様性が大きいバラ科植物のイチゴの花を利用する方が望ましいといえるぐらいです。
が残念ながら、大学ではあまりそれらが教えられていないように思うのです。
例えば、「教科の背景となる学問の学習」が多いのでは無いでしょうか?実践的な授業と言われるものは、すぐに使えるテクニック、また指導案の書き方(地域ごとでばらばらなのに)のように思うのです。偉そうにいえません、私も理科教育法を担当していたとき、そうでした。でも、教師が学習指導要領の守り手となる時代では、それは許されないように思うのです。
もし教師が学習指導要領の守り手になれば、子どもはデジタル教科書や外部コンテンツをツールと使えます。大事なのは、教師が子どもにどのような課題を与えるかだと思います。が、日本の多くの教師は教科書や教師用指導書が無ければ、自らが課題をたてられないのでは無いかと恐れます