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業務連絡

 オンライン、オフラインのゼミ生さんに業務連絡です。

 オンラインに関して、第一、第三水曜日の9時半から10半の枠を新設しました。そのゼミでは家内との晩酌後です。つまりほろ酔い状態です。ですので、オンラインゼミ生の方々に、呑みながらでOKですと申しました。

 何も言わなくても、やがて文化はできるでしょう。でも、せっかちな私は選択肢を与えたいと思います。

 つまり、9時半以前に集まって飲み会して良いんですよ。

 10時半以降もやっていいんですよ。

 そもそも、オフラインゼミ、つまり、リアルのゼミでの姿は周りの人は理解不能です。ゼミ中にカップラーメンを食べています。寝ている人もいます。スマホのゲームをしている人もいます。良いのです。出席自体を強いません。だから、寝ている人は、みんなのいるところで寝ながら、私の話を聞きたいのです。スマホのゲームをしている人は、私との会話を聞きながらゲームしているのです。

 だって、出席するか否かは各自が判断するのですから。

 まあ、西川ゼミを観た人はビックリします。

 ですので、オンラインゼミの方は、9時半前に呑んで良いのですよ。だって、私も呑んでいるのですから。何をしても良いのです。私をツールで使えば良い。使い倒せば良い。

 この精神を、実践で生かせば良いのに。

 とにかく、抜群を期待しています。
追伸 オフランの皆さん、オンラインの方の邪魔しないならば参加しても良いよ。でも、仕組みを考えよう。例えば、Zoomの仕組みを使いな。ようは、最適解を考えるのは私ではない。

変えられても

 本日、オンラインゼミがありました。殆どは授業に関係ないことです。例えば、遺産放棄すべき基準、投資の仕方、生き方等々。その中で若い教師(元ゼミ生)の質問が多くの方に分かりやすいし、共感できる質問でしたので紹介します。

 質問は「先生は教師は子どもを変えられないから、集団を変えるべきと言われますが、子どもを変えられることもあるのではないか」というものです。私の返答は以下の通りです。

 

 当然、変えられるケースもあるだろう。しかし、可能性はかなり低い。三十人の子どもの中に変えられる子どもがいる可能性と一人の教師が変えられる可能性を比較すれば自明だよね。第一、教師が変えられる場合は問題は表面化する以前に解決しているから意識化することもない。

 仮に変えられるとして、変えるべきではない。(この部分が、一人人に寄り添うべきだと思っている圧倒的大多数の教師には理解不可能です)

 一人を変えることはとても時間と手間がかかる。一人に時間を費やせば、他の子どもを見捨てることになってしまう。我々が時間と手間をかけるべきは家族だよ。では、どうするか?それはみんなで変えるんだ。みんなで変えれば、時間も手間も分担できる。そして、みんなでやっているので「何で私が」と思うこともない。

 でも、苦しんでいる子どもがいるとき、それに何もしないことは自責の念を持ってしまう。何もしないのではなく、やるべきことをちゃんとやれば自責の念を持たなくても良い。自責の念を持つならば、そのエネルギーを『学び合い』による実践に費やしなさい。支え合う集団を創れば、結局はその子を変えて、救えるのだから。

 「数学を18歳まで必修にします」、イギリスのスナク首相が年頭の演説で新たな教育方針を示しました。

https://news.yahoo.co.jp/articles/d6cdd130d8f59de34da8ac91f308f0e42c41d0ba?fbclid=IwAR1Qe0sd0mL_UrZ5vPwmhemXTHzaLqYn2dVy5-QeSHiTNRKTB5YI2xm-CcE

 笑えるよな。見事に工業化社会の人だ。

 でも、どこかの国も同じだな。

 国際化の時代だというと、小学校英語を必修化する。

 情報化の時代だというと、プログラミング教育を必修化する。

 それで個別最適化の教育と言っているのだから、悪いけど、頭悪い人たちのように思ってしまう。

 一分、一秒でも早く、今の教育を破綻させることが、多くの子ども達を救う道だと思う。

 個別最適化した教育と基礎的・基本的な学力の保障は矛盾しない。ただし、知識・能力の単位を個人ではなく、集団にした場合。

 全員が英語に強くなくても、英語に強い人と一緒にやれば良い。

 全員がプログラミングに強くなくても、プログラミングの強い人とやれば良い。

 そうすれば、英語を学ばないことに生じた時間をプログラミングを学ぶことに費やせば良い。逆に、プログラミングを学ばないことによって生じた時間を英語を学ぶことに費やせば良い。一人一人が個性的な能力を育て、それらが有機的に組み合わせる。有能な集団では、誰が何が得意であるという知識(トランザクティブメモリー)が発達している。

 しかし、文部科学省は最後の最後まで抵抗するだろう。だって、文部科学省の本質的な権力の源泉は、免許法と学習指導要領にある。後者を捨てろというのだから。ま、時代を動かすのは市場占有者ではなく、新たな価値を理解する一部だから。

無茶な課題

 私が学部2年の私の授業で課題として出したのは以下の通りです。

 

あなたが教師として子ども達の一生涯の幸せを保障するために出来ることは何ですか?それが一生涯の幸せを保証出来る理屈も含めてお書き下さい。ただし、私が講義で述べたこと、例えば『学び合い』は除外します。

 

 『学び合い』の考えのレベルまでお分かりの方だったらご理解されると思います。そうです、無茶な課題です。30年以上、考え続けて、『学び合い』以外には実現不可能だと確信しています。でも私の講義では、子ども達の一生涯の幸せを実現できるのは教師であることを述べてきました。それに対して、理論的、実践的に語り続けたのです。でも、彼らがそれらを乗り越えることは出来るわけないことも承知の上です。では、あえて課題として出したか。それは二つの理由があります。

 第一に、授業方法レベルしか考えたことがない学生さんに、子どもの一生涯の幸せという次元で考える機会を与えたいとの想いです。

 第二に、私の考えるレベルに多くの人が達しないのかを、私が確認したかったのです。私は色々な方から聞かれますが、極めて単純な論理と、実証的データで論証します。しかし、理屈では分かっても、納得はしないのです。理系の私としては、それが歯がゆい。

 では、この課題に対しての満点の返答例は以下の通りです。

 

 『学び合い』以外に不可能なので、書くことが出来ません。

 何故、不可能なのか、大きくは4つあります。

 

 第一に、一人一人の子どもによって、幸せの姿は異なります。また、それは人生の中で変化するものです。従って、これが分かれば幸せになれる、これが出来れば幸せになれる、というものは存在しません。だから、赤の他人の教師がそれを予見し、教育することは不可能だからです。

 第二に、第一の理由から、本人が自分の幸せを考え、それに近づくには何をすべきなのかを考えられるようになるしかなりません。しかし、全員が「そのように出来る」ということは不可能です。おそらく、それが本当に出来るのは集団の中のごく一部でしょう。

 従って、「そのように出来る」人と繋がり、支えてもらうしかありません。では、教師がそうなれるでしょうか?これは不可能です。三十人の子ども、それも一生涯に出会う、何千人の子どもを支えることは出来ません。第一、教師と相性がいいとは限らないのです。そして、おそらく教師が死んだ後は支えることは出来ません。ある子どもを支えられる人は、様々に変化します。多くの人が思っているような親・兄弟・親友が最善の支え手とは限らない。実際には多様で多数の知人こそが支え手となるのです。これは弱い紐帯理論の示すところです。

 従って、教師のすべきことは一人一人の子どもに寄り添うことではなく、一生涯支え合う集団を形成することです。

 第三に、そのようなことを実現することは困難です。思い出して下さい。同級生なのに1年間殆ど会話がないクラスメートは半数以上では無かったのではないですか?だから、教科学習でのクラスづくりをする『学び合い』しかありません。何故、特別活動、道徳等ではなく、教科学習でクラスづくりをすべきなのでしょうか?理由は二つあります。全ての子どもに多様で多数の知人を与えるとしたら、時間がかかります。学校における大部分は教科学習です。そして、特別活動や道徳等では、仲良くなったふりをすることが可能です。しかし、教科学習において、全員が高得点をとるふりは出来ないからです。

 第四に、仮に学校教育において望ましいクラスを創り上げたとして、卒業後50年以上、それが維持するには何が必要でしょうか?教師は不可能です。集団の中に教師が語っていたこと、やっていたことをやれるメンバーがいることが必要です。その子達が、定期的に呑み会を開催したり、電話のやりとりをしたりすれば集団は維持することが出来ます。こんな大変なことやり続けるには「得」であることを理解しなければなりません。従って、教師自身がこれからの社会の有り様を語り、それを小学校の授業で体現できなければなりません。このレベルを実証的なデータで語っている教育の言説は『学び合い』以外に無いからです。

 

 しかし、これは難しい。学生さんのレポートを見ていると乗り越えられないところがあります。第一に「子ども」という言葉を安易に使っています。子どもという子どもは一人もいないことを理解していない。第二に、その結果として、自分のがんばりで何とかできると思っている。第三に、教師の仕事は1年もしくは3年ぐらいを視野において、卒業後は自分の範囲外だと考えているので、未来像が殆ど見えていない。

 私のゼミを選んだ学部2年生の5人のレポートも似たり寄ったりです。ただし、5人の特異性はあります。私が「何故、西川ゼミを選んだの?」聞いたとき、「一人も例外なく一生涯の幸せを実現できるのは教師だ」という講義での言葉で選んだと応えました。つまり、その真の姿は分からなくても、良さそうだという嗅覚はあるようです。まあいいのです。それを2年間、私から学べばいい。いや、西川ゼミの最大の特権は、最先端の『学び合い』集団の中でどっぷりと浸かれることですから、ゼミ集団の中で染みこませればいい。