年賀状の返信で恩師からの年賀状をいただきました。そこに書かれている字は、30年以上間の恩師の文字です。今年、95歳だとのこと。私が教師という道を選んだのは恩師の姿の素敵さです。95歳になっても素敵です。
幸せ
大学院を修了し25歳で高校教師になってから分かっていたことがありました。子ども達に嘘はつけない。嘘をつけば見限られる。でも、その時点ではそのことの理論的理解
もなく、ましてや実証的なデータもありませんでした。でも、尊敬する先輩達の語りの中で感じました。
その後、大学に異動してからは学生・院生さん達と距離を持ち研究に打ち込みました。やがて、本学的にゼミ生を指導し始めると、高校教師と同じく「可愛い」のです。もちろん、失敗した過去があるので押さえるために必死でしたが、可愛いのです。独身の頃の私はほぼ運動部の先輩ののりでした。
結婚してからの家内は、私を守ってくれました。かなり無理をさせたと思います。しかし、息子が家内の中に生まれたときに、変えようと思いました。
それからは、家と大学を神経質になるぐらい分けました。私は管理者であり、友達や親兄弟でないことを徹底しました。それから20年たちます。
おかげで、学生さんに嘘をつかずに毎日過ごせます。
ようは、幸せは、至極簡単なことなのですから。
民主主義
民主義は、民主主義を信じられる国民が必須です。
自分の選んだ人でないと暴力的になるのは、自国民を信じられないのですね。
私は自国民を信じています。
私はあることを信じています。でも、大多数には受け入れられないことも分かります。
同時に、やがて分かってくれることも信じています。そうでないならば、私が間違っていることを示すことです。そうならそうで、それは正しい。
定番
ゼミでは森羅万象天地間のありとあらゆる質問を受けます。当然、定番の質問というのがあります。毎年、2,3人に聞かれる定番の質問に「親の土地を相続すべきか?」という質問があります。そのそも、それを質問する時点で「まし」です。土地神話を信じている人は、相続するの一択ですから。さすが、投資の話題が普通に出る教育の研究室だなと思います。
これは比較的簡単です。
判断基準は簡単で、そこに住むか、否かです。ただし、住むべき土地はそんなに多くはありません。昔は3世代が多かった。ところが核家族が基本です。即ち70歳代、80歳代の移動は自身でやらなければならない。となると、普段使いのスーパー、行きつけの病院(内科、歯科、眼科等)、駅に直結するバス停(1時間に複数のバスが来る)これらが500m圏内にある必要があります。皆さんの地域は極めて限られていると思います。上越市のスーパーにはタクシー会社に直結している常設の電話機が設置されています。
更に言えば、今の若い人が老後を過ごす頃には、人口減少が進みます。そうなると校外が捨てられ、中心部に集まります。これは私の住んでいる上越市では顕著です。上越市の全体の人口は減っているのですが、平地部分に新興住宅地が建っています。
でも、その新興住宅地も首をかしげます。車がなければ何もできない場所にあります。30歳代、40歳代で家づくりをする人が多いと思います。そういう人が手に届く土地は「住むべき土地」ではないですね。そのような住宅地を観ていると、「この人達は老後をリアルにイメージしていないんだな~」と思います。
「住むべき土地」以外は相続放棄をすべきです。何故なら、住まない土地を相続してもメリットはなく、固定資産税を払い続けなければなりません。財産ではなく、負債です。そして「住むべき土地」以外は売れませんので、一生涯、つきまとってきます。
自分が残す不動産が負債であることを理解することは親世代には苦痛でしょう。しかし、それが事実であることを、元気なうちに話して理解してもらうべきなのです。
だから生活が変化している50歳代までは借家にして、計画的な貯蓄と投資を行い、子どもが手を離れ、老後が見えてくる年に家を建て始めたら良いのではないでしょうか?
追伸 それにしても、この手の質問を教育学者に聞く方も聞く方ですが、応える私も何だと思います。なお、似たような質問に「墓を継ぐべきか」というものもあります。これにもちゃんと応えています。
募金
昨日のオンラインゼミで募金について質問を受けました。
ボランティアに関しての質問です。日本はボランティアの文化がなく、欧米はボランティアの文化があることを聞かれました。この違いは、日本の場合、メンバーシップ型社会です。簡単に言えば、職場が準拠集団です。職場が準拠集団であれば、募金ではなく労働によって集団に貢献できます。ところが欧米はジョブ型社会、つまり、いつでも職場を変えられる社会では職場は準拠集団になれません。だから、地域コミュニティが準拠集団になるのです。この世界では労働ではなく、募金によってコミュニティによって貢献できるのです。
では、これからの社会ではどうするか?
中学校区を単位の地域コミュニティが発達すれば、募金ではなく労働が貢献になります。例えば、子育て期間の人に対して、「いいよ、私の家でご飯食べさせて、寝かしてあげるから」という一言が金銭的には値千金になるのです。
そこで、私は「絶対に募金はしない」と言いました。質問したオンラインゼミ生は怪訝な顔をしました。以下の通りです。
私は募金をしない。例えば、○○羽募金はその募金のかなりの部分はその組織維持のために費やされている。と言いました。
中間搾取があるか否かを判断する基準は?と聞かれました。応えは簡単です。世界レベル、全国レベル、全県レベルの募金は中間搾取があると申しました。怪訝な顔をしてあので。「だって、それを維持するための人がいるでしょう。その人達が生活する賃金はどれほど?」と申したので納得しました。ようは手弁当で成り立っている組織は中間搾取はない。
私は東日本大震災の募金にはびた一文もだしませんでした。(例外は、学生さんの募金に対しては万札を出しました。駄目ですね、教師なのです)その代わり、被災地の人に対して、無料で講演するとオファーしました。これって、中間搾取無しですから。
つまり、金を出すことが嫌ではなく、善意にたかる奴らに金を出したくないのです。