■ [ゼミ]研究テーマの見つけ方
我々の研究室に本年度所属された4人の方々は、何となく大学院に来られた方はおられません。受験の際には既に研究の方向性について決められておられ、我々の研究室の研究に関して書籍等で勉強されておられます。それどころか、Iさんの場合は、1年弱前に大学に面談にこられ、修士論文を借りて読んでいました。そのような方であっても、実際に大学院に入学されるとカルチャーショックを受けるようです。入学後は、院生全員・学部学生全員との合同ゼミと、私との雑談(?)が中心となる個人ゼミが中心です。それに、先輩、同級生との話し合いが重要な要素です。その中で、我々の研究室の本で書かれている言葉の意味の、本当の意味を理解することになります。(現在、修士1年の方は、ちょうど、その段階です)
本を読んでおられる方であっても、それまで持っている囚われで読むと、真の意味を読む取ることは難しいようです。私や修士2年生の方と話し合う中で、それまで持っている囚われから徐々に解放されます。囚われから解放されると、無性に現任校に戻って、新たな視点から生の子どもの姿を見たくなるそうです。新たな視点で、今まで見ていた子どもを、改めて見たくなるようです。柔道の習いたての際、やたらに技をかけたがるのと同じです。
でも、実際に自分自身のテーマを考えるとなると、はたととまどいます。不遜ながら、我々が共有する授業観(教師の仕事は目標を与えること)・子ども観(子どもは有能である)は、単なるテクニックとは異なり、極めて強力です。それを得たならば、今まで分けも分からなかった現象の原因も見えてきます。また、解決の方法も、今までとは異なったアプローチになります。修士1年の皆さんは、現場において、「こんな研究をやろう」と思って大学院こられます。しかし、その多くは、単なるテクニックレベルのものであったり、過去の修士論文において既に解決づみであることに気づきます。それどころか、それよりも一歩も二歩も先のことが解決づみであることに気づきます。ある意味で当たり前のことです。だって、全国からバリバリの教師が集まって、2年間という時間を問題解決に費やせるんですから、現場で考えるレベルを超えていなければ給料泥棒です。そうなると、修了した先輩の修士論文がチョモランマの山々のように高くそびえ立つように見えます。もう、全てが解決づみのように見えます。しかし、そんなことはありません。
まず第一に、我々が共有する授業観(教師の仕事は目標を与えること)・子ども観(子どもは有能である)で授業を行ったとき、自分自身は不満はないだろうか?と問いかけます。もし不満があるならば、過去の修士論文を読み、私や修士2年の人と話し合っいます。それても、解決できない問題ならば、それは、素晴らしい研究のテーマです。仮に、我々が共有する授業観・子ども観で授業をやったときに不満がない場合は、別の視点で考え直します。旧来の授業観・子ども観を持つ同僚から、自分自身の授業実践に対して疑問(非難)を受けたことがないだろうかを思い出します。自分の実践に不満がないならば、そのような疑問を受けると、「○○を見て欲しい、知って欲しい、そうすれば分かってくれるのに!」と思われると思います。その「○○」を具体的なデータで出すこと、それが素晴らしいテーマとなります。
■ [報告]一段落
今年の3月に修了されたKさんより新任の挨拶状がきました。
そんな時期なんだな~と思いました。
私自身もそうでした。
大学院を修了し、高校教師になったときの挨拶状、また、高校教師を辞めて大学に勤めたときの挨拶状もこのころです。
4月より新生活が始まったとたん、怒濤の日々です、「挨拶状」なんて思いもつきませんでした。
それから、やりはじめるのですから、この頃になります。
「Kさん」も一段落したんだな~と思います。
そう思ったとたん、毎年,年度末におそわれる思いを思い出しました。
院生さんにとっては、大学院の2年間は、ネバーランドのようなものかもしれません。
また、そこに生活する私なんかは、永遠に子どものままのピーターパンの様なものかもしれません。
しかし、ピーターパンは、「大人になり、結婚し、子どもを得て、老いる」普通の子どものことがうらやましくて仕方がないんだと思います。
でも、同時に、ネバーランドの外では生きていけない自分をよく分かっているので、ネバーランドに遊びに来る子どもと遊んでいるんだと思います。
さびしいな~
今年は、自分の引っ越しで頭いっぱいのため、あまり感じなかったことをKさんの手紙で感じました。
それだけ、私も一段落したのかもしれません。