■ [ゼミ]ウエルカム全体ゼミ
毎年、学会の全国大会に参加するため、飛行機に乗り・電車に乗ります。なれない土地で、ビジネスホテルのベッドで寝ます。私は出張嫌いですが、その苦労を越えて、学会の全国大会に参加します。学会では、研究の新しい流れを感じることが出来ます。
でも、学会で勉強するより、全体ゼミの方が勉強になります。参加者の院生さん、学部学生さんの一言一言が、新たな研究の視点を与えてくれます。ワクワクします。ビックリします。それが一時間半つづくのですから。以前から、我々の全体ゼミの質の高さには誇りを持っていました。しかし、最近になって更にパワーアップしたように思います。その理由の分析は別の機会に譲りますが、とにかく質が上がりました。
「授業を見せて下さい」と聞くと、力のある先生か否かはすぐに分かります。力のある先生の場合は、「どうぞ」と直ぐに承諾してくれます。ところが、そうでない先生の場合は、色々と理由を付けて断ります。ある力のある先生の場合、「いつ見せていただけるでしょうか?」とうかがいましたら、「別に予告しなくて結構ですよ、見たいときに、いつでもどうぞ。でも、別に特別なことはしませんよ。」とのことでした。その言葉には、自然な誇りと自信を感じます。それでいて、奢りや気負いはありません。我々も、そうありたいと思います。
今までも、そうですが、我々の全体ゼミはオープンです。もちろん学外者も例外ではありません。いつでも、どうぞ。ただ、二つのことをお願いします。第一は、我々は作り上げるゼミ(学び合うゼミ)を目指しています。学ぶことを目指すものではなく、また、ゼミの発表者の研究に興味を持つことなく、自分自身の既存の考えの演説会をしたいかたはお断りです。第二は、「お客様」でいて、一言も発言しないかたもお断りです。作り上げるゼミの仲間になれる方でしたら、どうぞ。別段、予告する必要もありません。予告したからといって、別段、何も変えませんから。でも、院生のだれか(私にでも結構ですが)に連絡(あくまでも連絡で、承認を意味していません)した方がいいかもしれません。全体ゼミは諸般の事情から、別な日に急遽変わることがあります。行って、だれもいなかったということをさけるために。
追伸 ちなみに、個人ゼミもオープンにしています。具体的には、学年ゼミは私の研究室でやっていますが、その脇で、個人ゼミをする場合があります。
■ [ゼミ]研究テーマの宝箱
週末、院生のIさんから「学校は命令でいっぱいだ」というメールをいただきました。
金曜日の個人ゼミで、Iさんに「同僚が聞いたら、最初はエ!?といわれるもの。それでいて、説明をすると納得してもらえるもの。それが素晴らしい研究テーマなんですよ」と話しました。それに応えてIさんは、教師が普通は当たり前にしていることを洗い出してみました。具体的には、教師が教室で言っていることの一覧表です。このメモの最後に付けました。実に膨大なものですが、本当は、教師の言っていることのごく一部分なんでしょうね。
これら教師が言っていることは、本当に正しいのでしょうか。例えば、「カンニングはしてはならない。」は本当なんでしょうか?もしかしたら、「カンニングは積極的にすべき
だ。」と言うべきなのかもしれません(ちなみに、私の大学の授業では、積極的に隣の人の書いたのを覗きなさい、分からなかったら聞きなさい、と言っています)。また、「授業中は静かにしないといけない」は本当なんでしょうか? たしかに、カンニングや騒がしいことは悪いことかもしれません。でも、良いカンニングや良い騒がしさがないと断定できるでしょうか?つまり、教師が当たり前にしていることを、もう一度、「本当なのかな?」と問い直したとたんに、それが素晴らしいテーマなんです。つまりは、Iさんのメールは研究テーマの宝箱です。それに、Iさんが指摘していないものも多いのですから、それこそ素晴らしい研究テーマは満ちあふれていることになります。
なおIさんのメールの最後に、「自分で書いていてこんなに多いかと驚きました。教師とは一体何者でしょか。こんな に言われていたら子供が自分で考えられなくなる。もしくは、考える必要なくなるな。教師は命令マシーンだ。」と書かれていました。まったくですね。
一覧表を見ながら考えました。これらの命令は誰のためなのでしょうか?子どものため?教師のため?でも、どちらでもだめなんでしょうね。だって、子どものためであるけれど、教師のためにはならないものであるならば、聖人君主ならざる多くの教師が続けられる分けないですから。本当は「子どものためであり、教師のためである」べきなのだと思います。この二つが矛盾無く成立するためには、子どもと教師の関係を変える必要があると思います。そうなれば、命令はいらないのではないでしょうか?
・カンニングはしてはならない。
・授業中は静かないといけない。
・忘れ物はしてはならない。
・集中して先生の話を聞かないと自分で困る。
・友達と仲良くしなとならない。
・答えを早く出した人はいい子である。
・分からないのは、あなたが先生の話をよく聞いていないからですよ。
・残さずなんでも食べることは良いことです。
・自分でどんどん学習を進めることがはよいことです。
・分からないことがあったら、まず先生に聞いてごらん。
・自分で解決できないことは、友達に相談しなさい。(矛盾することいってる。)
・ケンカしない。
・友達の悪口を言わない。
・大きな声で歌いましょう。
・自分のことは、胸を張って表現しましょう。
・自分に負けるな。
・廊下を走るな。
・チャイムを守ろう。
・5分前行動をしよう。
・大きな声であいさつしよう。
・きちんと宿題をしなさい。
・授業中は、しっかり席に座りましょう。
・間違えてもいいんだよ、学校は間違うところだから。
・先生や友達の話は最後まで聞きなさい。
・みんなと同じくしないといけません。
・まっすぐ並びましょう。
・前の人に並ぶときはきちんをかさなるように整列すること。
・背筋を伸ばして、話を聞きましょう。
・あなたなら100点をなからず取れる、かんばれ。
・自分のことは自分でする。
・みんながやっているのに、どうしてあなただけできないの。
・最後まで話を聞けば間違うことはない。
・低学年は、何も知らないから優しくしないといけない。
・いじめは許しません。
・みんなで助け合って、協力しなさい。
・連絡帳は、きちんと書こう。
・一生懸命働かないと罰が当たる。
・自分の力で問題を解決しないとならない。
・問題と解くときは、友達と相談してはならない。
・絵は、のびのびと書きなさい。
・みんなの迷惑になることはしない。
・級長、班長の言うことは聞きなさい。(石崎はあまり強調しなかった。)
・一人一回は必ず発言しよう。
・人をあてにしない。
・疑問に思ったことは、すぐに質問しなさい。
・授業参観のときは、家の人が来るから静かにね。
・研究授業は、いつもよりがんばろう。(授業が終わりとよくがんばったとほめたな。)
・自分のものには、名前をきちんと付けよう。
・机のまわりは、きちんと整頓しよう。
・悪い子としたら、まず謝ろう。
■ [大事なこと]サルだったら
以前のメモに書きましたが、教育研究上の問題で判断に私が迷うとき、私は「サルだったらどうするか?」と考えます。私は学ぶという能力はヒトという生物に生まれつき備わった本能だと考えています。その能力の中で、もっとも基礎的(大事)な部分は、その進化の初期の段階で成立しているはずだと考えています。したがって、ヒトの祖先に近いと考えられているサルにおいても、もっとも基礎的(大事)な部分はあるはずです。そのため、サルではどうかということを考えます。この思考方法で、殆どの場合、シンプルでかつ、私自身は納得できる結論を引き出してくれます。そのような考え方から、私は異学年学習の方が自然だと考えています。このことは、我々のゼミの方にはよく話します。それに関連してIさんから面白いメールをいただきました。以下がそうです。
前回の相談を受けて、学校の集団でやっていることがサルの集団でも行われるか考え 始めました。「サルの生き方、ヒトの生き方」丸山幸丸を読み始めました。結構、自分がやってきたことがサルの集団では行われていないことに気づきました。 そして、こんな一文が印象に残っています。「ヒトは、先見性を振りかざして多くのことを教え込もうとするが教えられる側がろくに要求していないことはもとより、理解していないうちにぎゅうぎゅうと教え込もうとする所に、教える側と教わる側のずれが生じる。 昔の職人は、決して手を取って弟子に教えこんだりしなかった。教わる側の欲求の高まりを待つのが教育の基本ではないか。」
いままで考えていたことを、その道の専門家も指摘していることを、とてもうれしくなりました。しかし、そうなると、何故、現在の学校教育では同学年学習が基本となっているのでしょう?それは、現在も私にとって謎です。でも、私の現在の考えは以下の通りです。
現在の学校教育(公教育)は、徒弟教育の反省に基づくものです。現在の学校教育は、産業革命の結果として労働者を大量に養成するという社会的要請に基づくものです。それでは何故、徒弟教育ではだめだったかといえば、それは、徒弟制教育の場合、技術が奥義、秘技のようにクローズされ、マスプロには向かなかったという欠点がありました。なにしろ、その技術には生活がかかっているのですから、秘技にするのは当然です。そこで、パブリックな国家が秘技をオープンにしたのが、現在の学校教育です。
徒弟性教育は後れた教育のように思われがちですが、教育の達成度では現在の学校教育以上であると思います。なんとなれば、現在でも最先端の研究を行う研究集団(ゼミ、グループ、プロジェクトと様々な呼び方がありますが)では、徒弟制的な教育が基本となっています。ところが、産業革命で必要とされた労働者は、熟練技術者ではなく、非熟練技術者です。同学年教育はマスプロ化しやすいという利点があります。つまり、分かるか分からないかを別にして、教師役が学ぶべきことを一度言えばすむという利点があります。結果として、分かる人もいますが、分からない人もいます。でも、分からない人が大多数であっても、求めているのは非熟練技術者なんですから、問題ありません。
現在の学校教育は、産業革命当初のシステムを惰性として使っているようにしか見えないんですが・・・・
追伸 打てば、数倍になって帰ってくる。教師であることによって、学習者から多くのことを学べる。これだから、指導教官はやめられません。
■ [大事なこと]子どもだったら
教育上の問題を考える際、猿だったらと考えるということは先のメモに書きました。同時に同じ理由から、幼児だったらとも考えます。息子を見ていると本当に勉強になります。息子が大泣きする理由の大多数は、おなかがすいたでもないし、ねむたいでもありません。最大の理由は、自分が出来ることを親(即ち私たち)に先回りされ、やれなくなったときに大泣きします。例えば、オムツを替える時には、小さなマットを床に置き、その上でやります。あるとき、オムツ替えの後に、一人でマットを持ち、定位置に戻しました。我々の様子を見ていて、それをまねたのでしょう。もちろん誉めました。私の目には、誇らしげな顔でした。台所にいる家内のところにいき、家内が誉めると、手をたたいて喜びました。それ以降は、息子がマットを片づけます。ところが、時間がないとき、私が片づけると、手が付けられないほど大泣きします。
他にも多くあります。「使用後のオムツをゴミ箱に捨てる」、「階段を歩いておりる」等々、様々ですが、その修得過程(親を見てまねる)と、それを親がやると大泣きするという点は全く同じです。教えようと思っていないのにも関わらず、学んでいます。息子の姿を見ると、我々の学びの本質は、自分の属している集団の先達(親、もしくは年上の子ども)がやっていることをまねるということだと思います。
■ [ゼミ]プレッシャー
本日、沖縄で実践研究をしているHさんが途中経過報告と相談のため上越に帰ってきました。相変わらず、沖縄に帰っている間、途中経過の報告はありませんでした(県に出す書類の相談はありましたが)。まあ、「便りのないのは良い便り」だと高をくくっていました。ところが、修士2年のKoさんから、「5月の半ばに一度かえってくるらしい」との噂が「間接的」に聞きました。私としては途中でかえって来るということを聞いて、「どうしたんだろう?」とちょっと心配になりました。ところが、修士2年のKuさんは、「途中でかえってくるのではなく、切り上げてかえってくるのでは」と私を脅かします。顔では笑っていましたが、「本当かな?」と思いました。そうなると、心配性の私は、もし、「先生、ダメでした~」と泣いてかえってきたら、どう慰めてやろうかと心配になってきました。でも、顔を見て、安心しました。泣いている顔ではなく、晴れ晴れした顔でした。報告を聞きました。とても素晴らしい結果です。本人は、「まだです」、「どうなるか分かりません」とおっしゃっていますが、私から見れば、もう山は越えています。後の期間、データさえちゃんと記録できれば、大丈夫です。
相談の中で、観察しているクラスの中で、仲良くやっている班と、(相対的に)仲良くなっていない班があることがありました。Hさんからは、班の組み直しをすべきかという相談を受けました。私としては、組み直す必要はないのではと提案しました。理由の第一は、Hさんがクラスに目標を与えた際、各グループで7月までの期間を使って達成する目標を与えています。従って、それを変更し、今の段階でグループを変更することを納得させる説明は難しいという理由です。もし、説明できない場合、仲良くやっている班はドッチラケとなってしまいます。また、単純に班を編制し直した場合、やはり同じ割合で、仲良くやっている班と、仲良くなっていない班が生じるだろうことを述べました(「学び合いの仕組みと不思議」に書いたとおりです)。
私が提案したのは、問題となっている班を直接なんとかするのではなく、クラス全員に対して、もう一度、目標の意味を問い直すことを提案しました。その際、現在の活動の意味は、自分自身のみのためでもなく、また、班内のメンバーのみのためでもなく、クラス全員のためであることを強調することを提案しました。例えば、A君が現在所属している班に帰属意識を持っていない場合、自分のため、班内のメンバーのためと言われても、どうでもいいやという気持ちになります。ところが、クラスのためと理由づけられれば話は別です。同じ班ではないが、同じクラスに仲間(例えばB君)がいれば、そいつのためだったら、という気になります。さらに、クラスのためという意味づけを、クラス全体に話せば、B君が聞いていることをA君は知っているし、逆に、A君が聞いているだろうことをB君は知っています。そうなると、互いの関係から真面目にやらざるを得ません。このように、集団との関係の中で、穏やかな(しかし、厳しい)プレッシャーを教師は与えることが出来ます。しかし、このプレッシャーはいつまでも必要ありません。本(「学び合いの仕組みと不思議」)に書いたように、この種のプレッシャーは、いつの間にか強いられる規範ではなく、内在化した規範に成長させることが出来ます。簡単に言えば、いつのまにか真面目に取り組みたくなるわけです。
この提案をした後、Hさんには次のように語りました。
「今日、報告したことに関しては、2週間以内にまとめてゼミのメンバー全員に報告してね。今回の報告は、ゼミのメンバーの役に立つことが多いよ。新メンバーになってから全体ゼミで発表していないんだから、当然、やってくれるよね。」とニコニコしながら言いました。そして、「Hさんから、素晴らしい報告が2週間以内にあるよ、と、ゼミメンバーに触れ回るからね」と言いました。「これが、さっき言ったプレッシャーをHさんに当てはめたものだよ」とニコニコしながら言いました。
と、いうことで、ゼミメンバーに触れ回るのみならず、このメモを見ている全国の人に触れ回ってしまいました。
がんばってね、期待しているよ、Hさん。
追伸 ということで、ゼミのメンバーはHさんに「期待しているよ」と口頭でも、メールでも送って下さい。Hさんのためになるプレッシャーですから。でも、「大変だね、西川先生の術中に陥ったね」という慰めのメールでも結構です。