■ [懺悔]性(さが)
本日は学内で集中講義をしました。久しぶりの講義です。気持ちよく話せました。終わってから、絶賛のメールを頂きました。定時制の高校教師の頃、面白い授業、分かりやすい授業を目指し、古典落語の名人のテープを何度も聞きました。鏡の前で、笑い方、表情の作り方を練習しました。さらに、授業案を何度も練り、誰もいない教室で一通り話してみました。それも、これも、「面白い」、「分かりやすい」と子どもに感じてもらうためであり、なにより聞いてもらうためです。その気持ちは今でも同じです。正直、嬉しい。お世辞であっても、率直に嬉しい。でも自戒です。
高校教師の時代、私の授業を面白いと感じてくれる子どもと同じ数だけ、つまらないと思う子どもがいるということを、お仕えした教頭から教えてもらいました。大学の生物の授業、また、統計学の本から、正規分布という左右対称の分布が自然界の分布の基本であることを学びました。
事実、本日の集中講義の教室を見渡せば、積極的な敵意の表明をしている院生さんもいます。それを見ると正直悲しい。「私はあなたの敵ではないよ」と耳元でささやきたい。しかし、嬉しいメールをいただける方も、苦虫を噛んでいるような方も、氷山の一角に過ぎません。私には見とれない、大多数の方の中に、満足してくれる方と同数だけ、満足いただけない方もいるはずです。私としては、その平均値を出来るだけ満足してもらえる方に動かす努力をします。でも、全員は無理です。では、どうするか・・。
やはり、我々の研究室が求めているように、教師が全員を何とかするということは無理です。教師は学習者集団をコーディネートする役割にシフトしなければなりません。本日の私の講義は、話術と、教材で何とかするレベルです。しかし、それは最終的な到達点ではありません。単なる出発点です。1日しかおつきあいできない方々へ話す場合、学び合いの文化を伝えきれないための便法にしか過ぎません。
それにしても、「教師は教え手ではない」と標榜する私も、「先生の講義は面白い」と言われるとホクホクしてしまいます。恐ろしい罠です。年を取っても、「自分の話をつまらない人がいるんだ、ただ、顕在化しにくいだけだ」という自戒は持ちたいと思います。
追伸 でも、たまには褒められたい。教えたいと思って教師となった者の哀れな性です。
■ [親ばか]カラオケ
私は歌うことは好きですが、カラオケで歌うことはしません。院生さん、学生さんと一緒にカラオケにいったとき、「先生歌って」と言われることはあります。しかし、「俺の歌はプロ並みだから、タダでは聞けないよ。」と言って断ります。でも、本当の理由は、「歌って」と言っている人が、歌詞の1番目の後半から、全く興味を示さなくなることを知っているからです。私は、人の気持ちに敏感な方です。それゆえ、「興味がない」というオーラの中で歌う気力は無くなります。
最近、息子は歌に興味を持ち始めています。コマーシャルの歌を覚えたり、子ども番組の歌を歌います。このごろはしょっちゅう歌っています。最近はビデオの電車の歌がお気に入りです。それを見せると、画面に映る歌詞を読みながら一生懸命歌おうとします。しかし、歌が早いので間に合いません。そこで、「おとうさん、うたって」と頼まれました。そこで画面の歌詞に合わせて歌いました。歌が終わるまで、私のうまくない歌を一生懸命に聴いて、一生懸命歌ってくれました。とても良い聞き手がいたので、楽しく歌えました。