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2008-08-16

[]期待することの力 07:49 期待することの力 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 期待することの力 - 西川純のメモ 期待することの力 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は「期待しているよ」と言います。その言葉はゼミ生(そして同志)に恐れられています。私は『学び合い』が成り立った後は、教師は「期待する」しかないし、それが最も強力だと思います。その「期待しているよ」が成り立つためには以下の条件が必要です。

●『学び合い』の基本である、目標の設定、評価、環境の整備が成されている。

●それが成り立つことは、「その人・その集団」にとって重大な意味がある。そして、それが成り立たなくても、期待する人の生活の基本に影響を与えない。つまり、「その人・その集団」のためである。

●期待する人が、成り立つことを本気で信じる。

●上記のことが全て成り立っていると信じていることが、「その人・その集団」に伝わっていると信じている。(ちょっと分かりづらいかもしれませんが)

*[大事なこと]質問に応えて4

 一応、フォーラムで出た質問の最終回です。今回の質問に対する応えは、『学び合い』は考えであってテクニックではないということです。詳しくは「手引き書」に書いてあります。

Q:「○○さん教えてくれているんだね、クラスのためにがんばってくれているんだね、うれしいな」は方法を褒めていることになるのではないか?

A:まさに、その通りです。このことを疑問にもてるというのは、『学び合い』が考え方であってテクニックでは無いことを理解されているからだと思います。ご指摘の通り、この状態は良い状態ではありません。『学び合い』の初期段階を乗り越えるための「単なる」テクニックに過ぎません。こんなことを言わなくても、子どもが動くクラスを創るのが教師の仕事です。つまり、教師が上記のようなことを言わなくても、子ども同士が声がけし、さらに子どもの中に内在することによって声がけをしなくてもよい状態を創ります。

Q:結果主義?プロセスの中での成長には注目しないか?

A:プロセスを重視すると、子どもは「ふり」をし始めます。しかし、結果は「ふり」は出来ません。それ故、結果主義であることを子どもに伝えることは有効です。だれしも結果に結びつけるにはやるしかないことを知っていますから。ただし、人間は感情の生物です。この結果主義を求める際、教師の心の中に「愛」がなければなりません。

Q:終わったのに、教えずにふらふら遊んでいる子に対して、ねらいと違うじゃないかと、注意して良いか?

A:当たり前です。問題は「終わったのに」という表現を使う教師の心にあります。教師の与えた課題は「全員が課題を達成する」です。従って、終わっていません。解決策は、本気で全員が課題を達成することを願ってください。その願いが甘いと子どもは直ぐに見透かします。

Q:答えが一つに集約できない問題も「学び合い」で理解し合うことは出来るか?

A:出来ます。多様な意見を求める課題であっても、一定の幅があるはずです。なんでもありというのは、まずあり得ません。それをちゃんと子どもに語ることが出来るか、否かが重要なポイントです。例えば、校長が「みなさんの自由なご意見を求めたい」と言ったのに、一人一人の発言ごとにだめ出しをしたら意見を言わなくなりますよね。あれです。

Q:分かる子が一人など少数になったとき、大多数の子は何をしているのか?(一人の子をみんなで教える??)

A:こんな現象が起こるのは、課題がつまらん課題であり、かつ、一日ごとの課題である場合です。発展的な内容を含むものであれば、いつまでも深められます。また、一単元を任せるぐらいであれば、上記のようなことが起こらないように子どもが動きます。クラスには色々な子どもによって構成されています。どうしたらいいかなんて教師が分かるわけありません。教師が出来ることは「みんな」を求め、期待することしかあり得ません。

 逆に聞きますが、この状態は一斉指導で解決できますか?一斉指導で出来るのは、様々な問題を見えづらくすることぐらいです。問題を解決するには、教師はもちろんですが、クラス集団全員が問題をまざまざと見える状態にするしかないと思います。違いますか?

Q:保護者からの反感はないのか?

A:保護者からの反発が起こる原因は、子どもからの情報に基づくものです。もし、子どもが学校での勉強に意義を見つけ、かつ、成績に関して結果を出せば問題はありません。ただし、人相手のことですので政治をしなければならないのは当然です。

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 普通の教育論では、様々な職能を加え、重ねることを目指しています。ところが、我々の場合は様々なものを極限までそぎ落とします。そして、そぎ落とすことの大事さを分かったならば、百年の修行をした教師も、新任教諭も同じレベルに達すると考えています。まさに、宗教のようです。でも、そうだから、そうとしか言いようがありません。

 結局、教育(正確には人が人を管理すること一般)は人と人との関わりの中で創り上げられるものです。そして、一人一人の人は、他の人の心(腹)を読みながら行動します。それは言ったこと、やったことではなく、それらを一貫するもの、つまり心であり腹によるものです。

 ただ、我々は学術や実践を積み上げることによって、宗教や精神論に思える「考え」が、様々な言動にどのように現れ、それが個々の子どもたちに影響を与えるかを実証的データで語ることが出来ます。それを通して、科学という宗教のレベルに達したいと願っています。

 ニュートンのプリンキピアを読むと、非常に回りくどいものです。古典力学を分かった人間にとってはイライラします。しかし、しょうがありません。当時の様々な諸説に対して、いちいち説明をしなければならなかったのです。しかし、彼の古典力学は結局のところ、力を速度の変化に基礎を置いたところに尽きます。あとは、それを積分したり、微分すれば出るものばかりです。我々の『学び合い』も、煎じ詰めれば、「学校教育は人格の形成を目指しており、具体的には、他者と折り合いをつけて課題を達成できる能力の獲得である」という学校観と、「子ども「たち」は大人と同じだけ有能であり、かつ、限界を持っている」という子ども観に基礎があります。全ては、そのから引き出されるものであり、今後の発展の基礎もそこにあると思います。