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2010-11-02

[]ツイッター 22:22 ツイッター - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ツイッター - 西川純のメモ ツイッター - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、ツイッターで長い議論をしました。事の是非は、ツイッターをやっている人には見えるように意識していたのでお分かりのことと思います。皆様でご判断ください。

 「お~、また、馬鹿なことやっているな~」とお思いの方も多かったでしょう。わたしも自己分析していたのですが、でも、これから学べることは少なくないと思いましたので、意識的にしつこくやりました。

 最初に申しますが、私の反対の立場になった方、また、それを養護する立場の方、それは「まとも」な方です。私の主張がマイナリティであり、社会的に実証されている割合は少ないことは私が十分理解しています。従って、それに反対する立場の方はマジョリティーで、まともな方だと思います。特に、主たる相手方の方は、実績は素晴らしいものですし、日々の主張は妥当な方だと思います。ということを明言します。その前提で・・・

 私の学んだこと。

 私はツイッターが好きです。何故か。それは無責任でないし、第一紳士的です。これは誰が書いたと言うことがはっきりしているためだと思います。そこが2チャンネルと違う。無責任な発言や、個人攻撃的な発言をすれば、ブロックされます。そのため、ツイッターを初めて2年以上経ちますが、「てめー」とか「おまえ」的な議論になったのは3回だけです。今回は、実名で公表している方から「アホ」呼ばわりされました。これにはビックリしました。今まで色々な方と議論しました、初発のツイートは別として、大人の議論としてレスすると、大抵の場合、大人の議論として返信をいただきます。ところが「アホ」呼ばわりです。その方の平生の言動から考えて、不思議で、何故、それが起こったのか不思議です。おそらく、です。

 事の発端は、民主主義から考えて子どもを黙らせ続けるのは認められないというようなツイートから始まりました。それから、2チャンネル的な発言が連続します。想像ですが、きっと、「日の丸掲揚は絶対に許されない」というような発言のようにイデオロギー丸出しのツイートだと判断されたと思われます。

 ちなみに、私は高校教師だったとき、露骨な赤ビラ、青ビラに反対し、最後まで組合に入りませんでした。でも、退職の際には、組合主催の送別会で送っていただきました。

 次に、私としては論理的に議論を進めたいと思いました。その方の論理としては、私が教育基本法まで持ち出して民主主義云々をしたので、そんなこと持ち出さなくても、子どもが分かる分からないで議論すべきだという内容だと「私」は理解しました。

 そこで、「分かる、分からない」がそれほど簡単ではないことを確認し、その前提で目標の設定や評価をする場合は、かなり、馬鹿馬鹿しいレベルしかできないことを確認し、そのレベルだったら子どもたちでも出来ることを確認し、・・・・の連綿の中で、そのことが「分かる、分からない」ということに矛盾しないことと、抽象論ととらえがちな民主主義と矛盾しないことを論証しようと思いました。が、反論は、論点がずらされているように私は思います。

 優秀な研究者でもある相手方の方が、なぜ、議論が深まらないのか、考えました。思い当たるのは、学内の議論の際、学生が困っている現実があるとき、それはさておき「そもそも論」を持ち出す人がいます。その学生の心配をしている時の私は、怒り心頭になります。おそらく、それと同じじゃないかなと思いました。「そもそも論」と思われることが現実に繋がると言うことが分からないので、それを持ち出すと、そもそも論とは違う「学生が困っている」というレベルの論証を繰り返すことになると思います。

 今回のツイッターの議論、私は意図的に共有したいと思いました。そのため、相手方の発言はリツイートしましたし、私の発言はドットをつけました。ご判断してください。

 今回のことで、一般の方に、情報が限られたときに『学び合い』を発信すると誤解されると言うことです。その方の前提で理解しようとしても理解不能です。当たり前のことですね。私は同志の方に折り合いをつけろ、と言います。でも、面と向かってならば方便はつけますが、さまざまな媒体での情報発信では直球勝負です。その愚かしさをお笑いください。で、私の出来ないことをやってください。結局、普通の方をなっとくさせること、それは理屈ではなく実践です。そして、「みんなやっている」という非学術的な情報しかないのです。

 5年前でしたら、そうとう落ち込みました。嫌われたくない、尊敬すべき人から嫌われたのですから。でも、本日は、ちょっとましです。私は嫌われても、うまくやってくれる人が日本中にいっぱいいることを信じているのですから。