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2017-08-14

[]共存 19:06 共存 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 共存 - 西川純のメモ 共存 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』と従来型を共存させることが出来るか?

 政治的には「出来ます」と行った方がいいことは分かっています。でも、それは他の人が説明してくれるでしょう。だから、私は言います。「できません」と。

 民主的な専制政治はありえるでしょうか?

 どこかの国ではありえると思っていますが・・・

 ただし、民主国家においても専制政治を是とする人はいますし、専制政治の国においても民主主義を是とする人はいます。つまり、集団の中の混在はあります。

 また、ある人がある場面では民主的であり、ある場面で専制的であることはありえます。ただし、統一された方がいいに決まっています。

 そもそも『学び合い』と従来型は根本のところで全く違った考え方に立脚しています。それは学校観と子ども観です。従来型は学校観と子ども観を意識することはないですが、違うからこそ『学び合い』に違和感を感じます。

 例えば、教師がお膳立てして上手く授業が進むことを従来型は良しとして、『学び合い』は首をかしげます。

 授業が上手く進まなくても、自己修正できる子ども集団が出来ることを『学び合い』は良しとして、従来型は首をかしげます。

 これは学校教育の目的は何であるかの違いに由来します。

[]何を恐れているか 18:57 何を恐れているか - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 何を恐れているか - 西川純のメモ 何を恐れているか - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は長らく『学び合い』のテクニックを公開していませんでした。西川ゼミの学生及び、直接、西川ゼミに来た人に口伝でのみ伝えました。理由は、テクニックは劣化します。まだ広がる前に、「なんちゃって『学び合い』」を『学び合い』と思い込む人が量産されることを恐れたのです。

 ある程度増えてきたので、ネットブックでテクニックを公開しました。しかし、テクニックよりも「『学び合い』の考え」の分量の多い、多くの人には読みづらいものです。でも、それによって実践する人が増えました。イノベーターの方々です。

 それによって各地に『学び合い』実践者が増えてきました。次に比較的読みやすいマニュアルを書きました。スタートブック、ステップアップ、ジャンプアップです。これによってアーリーアダプターの人に広がりました。

 さて、アーリーアダプターからアーリーマジョリティに広がり始めるとき、キャズムがあります。安全確実に分かるものでなければなりません。それ故、一気にマニュアル群を整備しました。

 これからひろげる人がアーリーマジョリティからレイトマジョリティにひろげるとき、どんな戦略があるかを考えます。

 そのような人は『学び合い』を理解したいとは思わない人です。この人達にどのようにしたらいいか、そりゃ方便(つまり嘘)をつかなければなりません。具体的には、『学び合い』的には誤りであることを、さも本当のようにするのです。具体的には、シンプルな『学び合い』に受け入れやすいテクニックを付け加えることによって、従来型に似せるのです。

 これは有効です。これを使ったことはわがゼミでもあります。でも、それをマニュアルとして整備するのは間違っているように思うのです。

 『学び合い』を分かった人がそれを直接コントロールしているならば、受け入れてもらった後に、その付加したテクニックを無くすように誘うことが出来ます。しかし、その直接のコントロール無しで受け入れやすいテクニックを付加すれば、それで受け入れた人は、さらに付加します。結局、その人が最も受け入れやすい従来型にしてしまい、それを『学び合い』だと思い込むことになります。

 テクニックを付加するのは何故でしょうか?

 子ども達の能力を信じていないからです。

 そして、子ども達の多様性を認めていないからです。特定のテクニックを加えれば、それを受け入れられない子どもが生じます。もちろん、そぎ落とした『学び合い』においても受け入れがたい子どもはいます。しかし、そこで求めていることは、その子どもの一生涯の人生において必要なものです。だから、あえて求めることが出来るのです。そのような万人において一生涯に役立つものではないことを求めることはアウトです。

 が、方便としてはありです。でも、それが方便であることを理解している人が、直接関わり続ける必要があります。

 それが無くて方便があたかも正しい方向性だと思われることを恐れます。それは総合学習がクロスカリキュラムに変質し、言語活動の充実が国語での話し合い活動の少し増やすことに変質したことと同じ事になってしまうのではないかと恐れているのです。

 では、どうしたらいいか?

 おそらく『学び合い』の会等によって直接関わる人が増えることだと思っています。それが可能なだけ広がったと思います。