■ [大事なこと]分かり合う
最近、ある先生と議論して、その結果、私の部屋の机を叩き、「あなたとは分かり合えない。先生は先生のやり方でやってください。私は私のやり方でやる。」とおっしゃって出ていきました。あっけにとられました。私も会議で議論をし、怒鳴り合うことはあります。しかし、最後通牒を出すというのは、大人げないな~と思いました。でも、そのことが印象深いのは「あなたとは分かり合えない」という言葉と、「先生は先生のやり方でやってください。私は私のやり方でやる。」という二つの言葉が印象深かったためです。
人が他の人と分かり合うって、出来るんでしょうか?私は無理だと思います。だって、小さい頃から育てた親でも、私を分かっているとは思いません。プライベートで一番時間を過ごしている家内とだって分かり合っているとは言えません。だから喧嘩もします。でも、その時、その時に話し合って折り合いを付けています。これは、全ての対人関係に当たるのではないでしょうか。つまり、「あなたとは分かり合えない」という言葉は、当たり前のことを言っているに過ぎません。その言葉の正確な意味は、「あなたと折り合いを付けるための議論はしない」ということです。つまり、「あなたとは分かり合えない。だから、先生は先生のやり方でやってください。私は私のやり方でやる。」という意味ではなく、「先生は先生のやり方でやってください。私は私のやり方でやる。だから、あなたと折り合いを付けるための議論はしない」という意味です。しかし、この議論もあまり賢明な考え方ではありません。本当は、別々な方法でやるならば折り合いがつくので、同じ方法でやるなら折り合いがつかないのが実態です。
私が大学学部の1年の時です。当然のことながら、結婚はリアリティはありません。従って、同級生とその種ことを抽象的に議論をすることがありました。当時の私は、「何故、男と女が結婚するか」ということを疑問に思っていました。性的な快楽を求めるのみなら、結婚という形態を取る必要性がありません。18歳の私が、子どもを欲しいとは思っていませんでした。生活上のパートナーという意味でしたら、気のあった同性の親友の方が女性よりよほど「分かり合える」と思っていました。そのことをある友人と議論をしたとき、その友人は明確に答えました。曰く、「男と女は別々のことを目標としえるから、互いに補える。全く同じことを目標とした場合、互いの存在は、互いの目標の障害になってしまう。だから、同性同士が生活上のパートナーとなれば、早晩、崩壊するよ。また、異性同士でも、同じ目標を持つもの同志であれば、それは同性同士の結婚と同じ結果になるよ」と答えたのです。その当時読んだ、どんな恋愛論、結婚論より、短い言葉で納得させるものでした。巡り合わせは不思議なものです。その友人は、後に研究者となりました。そして、なんと結婚相手に選んだのは、同じ研究者でした。どちらとも一流の研究者です。そして、最近知ったのは、その友人は離婚したそうです。ある意味で、私に語った男女の結婚の必然性の説明は、彼自身の未来を予言したとも言えます。つまり「あなたと私は違うから折り合いを付けない」というのは愚かで、「あなたと私は同じだから、折り合いを付けない」というほうがより正しいともいます(もちろん、それでも折り合いを付ける方が賢明とは思いますが)。
■ [ゼミ]研究の出発点
昨週末に学卒院生さんと研究に関して議論しました。それぞれの議論の方向やレベルは異なるものです。しかし、同じ誤解をしているのが印象的でした。
我々の研究室の手法の特徴は、中長期にわたって平常の学習者・教授者の生の姿を丹念に記録し、その膨大なデータの山(本当に山のようです)を丹念に分析する方法をとっている点です。例えば、教室の場合、1~3、4台のビデオカメラ、8~40台のカセットテープレコーダー(最近はICレコーダー)で記録します。1時間の授業記録を分析するには、その4,5倍の時間がかかります。ところが、上記の方法で記録すると、1時間の授業ごとにその40倍以上の記録がかかることになります。つまり、単純に時間換算すると150~200時間分となります。それを1ヶ月から3、4ヶ月にわたって記録するのだから、気が遠くなる作業です。でも、そのような研究が可能なのも、我々の研究室の主力が現職院生さんであるという強みがあるからです。自分が授業を行い、自分のクラスで調査できるという強みです。おそらく、上記のような研究をしたいと大学研究者が願っても、それを受け入れてくれるような奇特な現場教師は殆どいないでしょう。
学卒院生さんの場合、自分自身のクラスを持っていません。したがって、上記のような研究をするためには、それを受け入れてくれる場を探し出す必要があります。これに関して、学卒院生さんは子ども受け入れて活動させる施設にボランティアとして参加するという方法を採用しました。しかし、その施設の活動の殆どが野外活動であるため、従来我々がやっていたクラス内での記録方法が採用できないという難点があります。学卒院生さん達が悩んでいたのはその点です。
彼らが私に、どのように記録すればいいのか悩んでいる、ということを色々と語り終えた後、私が質問したことは「その施設の活動に参加して何を感動した?」という質問です。いずれの院生さんも鳩が豆鉄砲をくらったみたいに、ポカンとしていました。おそらく、とにかくデータを取りさえすれば、あとで分析すれば何か出る、と考えていたのでしょう。しかし、教育研究の場合、そのようなことはまずありません。私は、教育研究とは、その場において感じたことを、一定の方法で説得力のあるものにする営みだと考えています。そして、その場において感じられなかったとしたら、どんな分析をしても出てくるものではありません。もちろん、○○分析(なにか難しげな言葉を入れてください)を色々すれば、何かは出てきます。しかし、それらの結果として出てくるのは、学者の世界では通用しても、現場教師の心に響かぬ結果ばかりです。私自身が、その種の論文を日本でもっとも書いた一人であるので、その種の研究がやろうと思えば簡単に出来、それでいて自分自身の教師の心に響かぬ空しさを感じていました(それでいて学者社会での業績にはなります)。
彼らには、その場において何も感動しなかったなら、そこには何もないことを説明しました。私が出来るのは、君が感じた感動を、どのようにデータ化し、分析することに関して手伝うことであることを述べました。そうすると、ぽつぽつを語り始め、しだいに色々語るようになります。
それに対して、「今、色々語ってくれたよね。いま、思い出して語ってくれたことでも十分に心に響くよ。それを、記録にして分析するのが研究の出発点なんだよ。そのエピソードを記録しているわけではないよね。でも、それを小さな手帳に書き込むことは出来るよね。いや、写真に撮れるんじゃない。そして、その後にインタビューして、その声を記録することは出来るよね。そう考えれば、出来ることはあるんじゃない。その出来ることを出発点にして、少しずつでもデータの厚みを増やせば良いんだよ。でも、一番大事なのは、人に伝えたい心に響くものだよ。」と説明した次第です。