■ [報告]昨日
昨日は群馬の小学校によばれたので講演に行って来ました。学校の時間に合わすとなると、電車の時間が合いません。行きで2時間の待ち時間、帰りで1時間の待ち時間です。聞くと、その小学校はインターチェンジから1分です。片道2時間半ですが、車で行くことにしました。行き帰りとも快調でした。学校では1時間半お話ししました。嬉しかったのは、講演の後の研究協議で、色々な先生から質問が出たことです。大抵の講演会では、質問したそうな先生はいるのですが、「質問のある方」と司会の方が促してもなかなか質問が出ていませんです。まあ、それが普通なんだと思います。だって、見ず知らずの大学教官に質問するのには大きな勇気がいります。ところが、校内研修会という状況もあって質問が出やすかったのかもしれません。でも、私の正面におられた若い女の先生の目がキョロキョロ動いているのに気づきます。教師であったらおなじみの「質問しようかな~、でも~・・」というやつです。私は、私のテレパシーの全力を注いで「ほら、がんばれ!」と念じたのですが、諦められたようです。がっかり・・・。その他にも質問しそうな先生がおられましたので、「電子メールでの質問はいつでもウエルカムです」と申していました。
その日の質問を答える中で、ふと、こんな事を考えていました。今、絶対評価で先生方があたふたしています。そんなに悩むぐらいだったら、子どもに聞けばいいのではと思います。例えば、授業の最初に子どもたちに学習の目標と日程等の計画を語り、「どのようなことで成績を出したらいい?」と質問し、話し合わせればいいのではないでしょうか?そして、その評価は子どもたち自身が出すのです。きっと、上記のことは評価であると同時に、動機付けを与え、目標を持たせることとなると思います。そして、子どもたち同志の相互作用を利用すれば、目標を共有することを促すでしょう。こうすると、教師は評価をしなくてすみます。では、何をすべきでしょうか?それは、子どもたちが設定する評価を1年間にわたって評価するのです。子どもたちが学習をどのように捉えているかは、いかなる評価を考えるかで分かります。とっても魅力的な研究テーマじゃありません?どっかの学校でやってみたらいいのにな~
追伸 帰りも快調に運転出来ました。でも、自宅で夕食を食べて、息子と風呂に入って、バタンキュ~でした。本日は、地元の理科教師の研修会によばれていました。今から出発です。
■ [嬉しい]返信メール
本日、ある先生からメールを頂きました。いろいろなことが書かれていました。その中で以下のような部分がありました。
『話が全然変わりますが、メモを読んで偶然でびっくりしました。親孝行のところですが、きのう、ニュースの記事関連の話で子供たちと、「絶対親より先に死んじゃいけない、死ぬ勇気があったらどんなことしてでも生きなくちゃ、きれいな自殺なんてないと思うよ。周りの人を傷つけるし。あなたたちは宝物なんだよ。」というような話をしたばかりでした。「きれいな自殺はない」という話にいろいろな質問が出てきました。子供はすごく神妙な顔で、そしてびっくりした顔で聞いています。その顔を見て、毎日会っているのに命について子供たちと話す事ってめったにないと反省してい>ました。 』
それに対する私の返信は以下の通りです。
『毎日感じたことを、語ることが大事だと思います。 大向こうを唸らせる話ではなく、本人が感動していることを、その感動の中で語ることが大事だと思います。 だから、もし、『めったにないと反省していました。』と感じたならば、それを語ればいいんじゃないでしょうか(釈迦に説法ですが・・) でも、難しいですよね。 世の中には「生きて欲しいと願われていない」と思っている子どもがいます。 そして、悲しいことですが、それが本当の子どもがいます。(定時制高校時代、そういう子どもを見なければなりませんでした) その子に対して、どのように語ればいいのか悩みます。 でも、「生きていて欲しいと願われる」ことは幸せですが、 実は、「生きていて欲しいと願う」ことも幸せだと思います。 私は、家内や息子に、とにかく生きて欲しいと願っています。 そのことをとても幸せに思います。 だから、「生きていて欲しいと願われていない」子どもに対しては、「生きていて欲しいと願う」ことを目指して生きて欲しいと語りたいと思います。』
■ [ゼミ]剪定
今は学生さん、院生さんの卒業論文・修士論文の骨格作りの時期です。研究の初期段階では、教師である私はものすごく介入します。しかし、その研究の方向性が確立した後はほとんど介入しません。もちろん、相談にくれば話し合いますが、研究の指導というのではなく、一般的なお悩み相談のレベルです。その内容も、ほとんどは「自分で考えなさい」というものです。以前の私だったら、かっちりと指導していました。しかし、今はそうではありません。
かっちりと指導していたときは、確実に私が予定している段階まで進むことが出来ます。しかし、院生さん、学生さんの研究の中で、心に響くものは、私とは関係なくやったこと・見たことでした。しかし、それらは以前のガリガリの量的研究のパラダイムに乗せることは困難であるため、それらを潰していました。そして、ガリガリの量的研究のパラダイムにしっかり乗った研究にまとめました。結果として、それらの多くは学会誌に掲載されました。しかし、今では既存のパラダイムにあわせて研究をするのではなく、心に響くものを出発点として研究を進めています。はじめは冒険でしたが、結果はOKでした。心に響くものを出発点として、最終的に既存のパラダイムにおいても認められる、新たな研究をまとめることが出来ます。そのため、今では中盤以降は介入せずにいます。その方が、自分では思いもつかない高みに行ける研究に出会えることがわかっているからです。
今年は夏休みの学会発表が終わるまでは介入するのを我慢しました。心の中では、「そこ弱いよな~」とか、「そんなまとめ方だとだめだよな~」といいたい気持ちを抑えました。結果として、のびのびといろんな方向の成果を得ることになりました。今は剪定の時期です。100実った実のうち、よい実を選び、悪い実を切り捨てます。しかし、「悪い」といっても本当に悪いわけではありません。私が常にいうのは、「○○さん、あなたの研究を同僚に説明するとき、どんな風に説明する。きっと、今の説明ではわかってもらえないだろうし、第一、それは○○さんが一番わかっているから、そんな説明しないでしょ」」ということです。そして、論文の構造を書き直してもらいます。なおしたものを読んで、また、全く同じことを言います。その繰り返しの中で、院生さん自身が、現段階で同僚にもわかってもらえること、即ち、よい実を選び出します。
今年もよい実がなりました。切り捨てた実もすばらし実で捨てがたいものがあります。しかし、捨てた実は本当によい実であれば後輩が拾って大きくしてくれます。少なくとも2年前に予想も出来ないほど素晴らしい実です。気持ちとしては、柿を食べて窓から種を捨てたら、いつの間にか窓の外に立派な実をつける柿の木あることに驚いているような気持ちです。本当に植物は農夫が育てるのではなく、土と水とお日様が育てるものだと思います。
院生さんは、何度書き直しても、「そんな説明で同僚がわかってくれる?」という言葉で撃沈して大変だったでしょう。長い時間かけて書き直した原稿に、私が1分も読まずにつかっえすことに憤慨したでしょう(でも、私の場合は、それを破り捨てられて育てられました)。でも、自分が読んでもらう側から、読む側になればわかるはずだと思います(いや、すでに気づかれているはずです)。論文は、そして論文に限らず仕事は、結局、自分で気づいて直さなければ直らないんです。逆に、真っ赤に朱筆をいれるような校長の下で働きたいですか?おそらくNOだと信じています。そんな人だったら、宇宙一厳しい我が研究室に所属したいなんて思わないはずですから。そして、その立場になったら、私と同じようなことをすると思います(○さんは、そんなに遠い未来でないかも)。私が自分の指導教官(学部および大学院)と同じようなことを今やっているように。
追伸 昨日の午前中は学部生が自分の研究を相談しあっているのを横で聞いていました。素晴らしいものです。自由奔放に右に左に上に下に研究がのたくっていましたが、いつのまにかまとまっていました。乞うご期待。
■ [報告]種まき
我が研究室には日本中からメンバーが集まってきます。ところが、お膝元の上越地区出身者はほとんどいません。少なくとも私が助教授になってからに限ってはお一方のみです。学部学生は全国各地から来るのですから、その比率の低いのはわかります。ところが、新潟県は本学に多数の院生さんを派遣しているんですから、もっと多くてよいはずです。ところが、下越・中越の方はいらっしゃるのですが上越はほとんどいません。本日の研修会には、理科コースの現職院生だった方も多くいらっしゃいます。ところが、それらの方々は全て教科専門(物理、化学、生物、地学)の研究室の方々です。どうにかして、地元の先生に興味を持っていただきたいと思っています。その意味で、今回の講演は私にとってよい機会です。先に述べた「例外のお一方」は今から4年前の同じ会における私の話を聞くことがきっかけで我が研究室に所属を希望し大学院を受けられました。本日の話の結果は、数年後に出るのだと思います。桃栗三年、柿八年、かしこい先生は4年・・かな?