■ [大事なこと]信頼
信頼を得るための方法は多様です。私にもあります(http://bit.ly/yQRpXM)。しかし、方法はどうでもいいのです。方法は一人一人違います。『学び合い』のセオリーです。一番大事なのは、信頼を得たいと思う気持ち。正確には、信頼を失うことを恐ろしく思うことです。私は、それが恐ろしいから、自分なりの方法を洗練したのです。
でも、人は誤るもの。私も、みんなもそうです。しかし、恐ろしい失敗をしたら、それはトラウマのように残るものです。例えば、スピード違反で捕まったら、半年ぐらいは、どの曲がり角の先にもねずみ取りがあるように思えますよね。あれと同じです。私も誤ります。でも、半年以上はトラウマになり、「そうならないか・・」とびくびくしています。従って、少なくとも同種の信頼を失う行動は絶対にしません。
でも、半年以内に何度もする人がいます。理由は簡単です。「その人」に対して信頼を失うことを恐れていないだけです。
では半年以内に何度も同種の信頼を失う行動をする人はどうしたらいいでしょうか?二三年は信頼を獲得する行動を続けるしかないですね。もし、それ以内で信頼を失う行動をすれば、それまでの期間はリセットして振り出しに戻ります。
小学校5年生の息子を見ていると、謝ったらそれで許されると思っているようです。ま、家族ならばそうでしょう。しかし、社会ではそうはいきません。社会では、謝ったら関係者は忘れたような顔をします。しかし、忘れません。自分を「信頼を失うと恐ろしい人」ではないと認識していると思い続けます。それを回復するには二三年は必要です。
私はそれが恐ろしい。だから、それはしないようにしています。別に難しいことではありません。それが恐ろしければ、ごく普通にやり続けられることをしているだけのことです。
私の言っていることは厳しいことではありません。そして、私だけが厳しいわけではありません。それなりの立場の人は、私と同様に人を見ているはずです。そして、私も、それなりの人の判断を二十代からずっと受けています。そして、社会人のそれなりの仕事をしている人はみんなそうです。
追伸 そうできない人もいます。それは集団で何とかするしかありません。一人も見捨てないためには。そのためには、信頼を失うことを恐れる集団を管理者がつくることです。
■ [大事なこと]帰納と演繹
理系と文系は最先端では、それほど違いはないのですが、一般的な議論をする際には特徴があるように思います。理系は、最初に前提を確認し、それから論理的に引き出される結果を積み上げて是非を問います。逆に、文系の場合は、最終結果から、それに一致する論理を積み上げます。
学内政治では、理系の人を相手にする場合は、議論の前提となる学則や関係法規を確認して、そこから是非を議論します。理系の人の場合、最初の前提と論理を認めてもらえば、そこから演繹されたものがその人の希望と異なっても、認めます。従って、理系の人を相手にする場合、現実の問題の議論をする前提は何かの合意を得るまでが勝負です。
ところが、文系の人は前提から演繹するということをあまりしません。ま、現実の問題はそれほど単純ではないので、正しいアプローチとも言えます。従って、基本的には理系の私が議論しようとすると、前提を定めるのは避けますし、確認した前提をころころと代えます。従って、論理的な議論は非常に難しい。しかし、論破するときには、これをとことんまで突き進みます。
が、文系の人と合意を形成するためには別なアプローチをします。どうするかといえば、その人が是とする現実を確認するのです。そして、その人の是とする現実が、何故、是としているかを確認します。そして、私が是とするものと同型であることを説明するのです。
『学び合い』の理論は基本的に理系です。非常にシンプルな二つの原則を演繹することによって整理することが出来ます。理系の人は、その理論を一つ一つ確認すればよいのです。しかし、文系の人は、基本的にまず現実の現象から出発します。そうすると、見た目にはだいぶ違うので、『学び合い』を説明するのは難儀です。
追伸 文系と理系の枠組みが戯画的であることは十分に理解しています。
■ [お誘い]群馬の会
明日は群馬県高崎市で『学び合い』の会に出ます。全く新作の演目で、おそらく他では殆ど話さない、今回限りの話になると思います。つまり限定商品。内容は、私がこの数年でどんな戦略を考えているかということを、経営学の視点で話します。http://bit.ly/sKTYlZ
■ [ゼミ]隠れキリシタン
私は、ゼミ生とのやりとりは随時公開しています(http://bit.ly/zGggOn)。最近、ゼミ生の研究の相談を受けました(http://bit.ly/xxj2By)。とても楽しみな研究です。
全国には隠れキリシタンのように実践している『学び合い』の実践者は数多くいます。私はその人のために「従来指導型『学び合い』の手引き」を書きました。ゼミ生と話しているうちに、「考えてみれば、隠れキリシタンのように実践しなければならない、全国的に広がった教育実践というのはかってあっただろうか?」と思いました。おそらく無いと思います。あったら教えて下さい。
隠れキリシタン的になるためには、二つのことが成り立たなければなりません。第一に、ちょっと目にも全く異質であることが分かると言うことです。新規採用者でなければ、毎日の実践をつぶさに観察される機会は殆どありません。従って、人の授業実践が変わっていると分かるためには、見た目にも異質であり、かつ、日常的な実践であるということです。
第二の条件は、それが迫害されてもやり続けるだけのものがあるということです。今年のゼミ生がそのあたりを調べていますが、簡単に言えば、結果が出るからです。もちろん、成績の目に見えた向上にまで行けない人もいますが、それでも、人間関係の向上は比較的早く、容易く実現することが出来ます。それだから迫害に耐えられるのです。
こんな教育実践で全国的に広がった実践って、あるかな~?っと思いました。
併せて、『学び合い』に反対する人の調査も勧めました。『学び合い』の前提の一つである、知りすぎると分からない人の気持ちや理解が分からない、ということは私にも適用されます。私には、『学び合い』が分からない人の気持ちが分からないのです。
例えば、「教師しか教えられないのに、子ども同士で教えられるわけ無い」という誤解は典型的な誤解の一つです。しかし、それに対する説明(http://bit.ly/zjmcrp)をしたにも関わらず、「教師ですら教え方(学び方)を知らない国語を、『学び合い』でどうやって教える(学び合わせる)んだろうな。どうしようもないだろ…。困った「教師」たちだよな。ほんと。議論の余地もない。」と反応される方の頭の中が理解不能なのです。
その方の授業中の会話を全部記録し、分析したら、その圧倒的大多数は、極単純な指示であるはずです。また、漢字の書き取りや、基礎的文法を行動主義心理学程度の手法で教えているはずです。それを何故、具体的に意識化させるコメントを読んでも自覚できないのか分からないのです。
その方にもちゃんとした理由があると思います。しかし、私と議論するとぎっくり腰にさわるそうですから、残念ながら分からない理由が分からないのです。そのあたりをゼミ生が明らかにしてくれればありがたいと思います。