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2016-12-24

[]笑い話 09:56 笑い話 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 笑い話 - 西川純のメモ 笑い話 - 西川純のメモ のブックマークコメント

学び合い』はバカげている。こんなことを実践している教師がいるなんて信じられない。クレージーだ。

というような記述をネットで見つけると思い出す笑い話があります。

 

ある貴婦人が画廊でピカソの絵を見ています。婦人と店主の会話です。

婦人:こんなバカげた絵が数十億もするなんて信じられない!

店主:奥様、中国語を話せますか?

婦人:もちろん話せないわ!

店主:奥様。世界には十億人以上の人が中国語を話しています。

 

追伸 おそらく店主は得意先を一つ失うでしょう。だから、「まったく奥様の仰るとおりですね」と言うべきですね。政治をしましょう。

*[大事なこと]目指すものと方法

今ゼミ生に教えたこと。

 方向性は同じでも、どれぐらい先をイメージするかで方法論は変わります。例えば、授業改善のレベルだったら、子ども達よりも教師の方が早く改善する人もいます。しかし、それが出来る教師は希で、カリスマと言われます。しかし、何故、それが出来るかを言語化できる人は本当に希です。そりゃそうです。もの凄く、複雑な要因が関わるからです。考えてみて下さい。伴侶が怒ったとき、それを許してもらえる方法を言語化して下さい。無理だと思います。そして妻が三十名いたら・・・・。

 でも、その人が「全ての教師が出来るにはどうしたらいいのか?」と考えないならば、自分の実践を言語化することに邁進するでしょう。「全ての教師ができるにはどうしたらいいか?」を考えれば、直ぐに、それは無理であることは自明ですから。

 そもそも「子どもの一生涯の幸せ」の次元で考えれば、教師の手立てで何とかすることで満足できるわけありません。学校を卒業したあとに教師はいないのですから。もし「子どもの一生涯の幸せ」を願うならば、教師の手立てをどれだけそぎ落とすかに頭を使うでしょう。

 そのゼミ生に話してないこともあります。

 かつて西川ゼミの卒業研究は学会誌にボンボン掲載されました。地方大学の准教授あたりが2、3報の業績も得られない学会誌に、22歳の学生の論文が掲載されるのです。理由は、私が基本的に問題設定をして、方法を決めて、データの解釈をするからです。私は学術論文の業績の上げ方を熟知しています。だから膨大な業績と学会の賞を獲得しました。その私の頭で卒論を進めれば学会誌に掲載されるのは当然です。

 が、今はしません。それは本質的に学生が成長しないからです。もう一つは、私が考えた研究からは、私の考えを超えられないからです。だから、私は出来るだけ教えずに研究をすすめさせています。もちろん、アドバイスはします。でも、出来るだけ、そのアドバイスをそぎ落とします。そのような研究を積み上げたから、既存のパラダイムを突き抜けた『学び合い』が学術的に生まれたのです。

[]サンタクロース 21:59 サンタクロース - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - サンタクロース - 西川純のメモ サンタクロース - 西川純のメモ のブックマークコメント

 高校1年の息子がサンタクロースは今どこを飛んでいるのかな?と聞きました。

 我々夫婦は、今年からサンタクロースはお父さん、お母さんが担当すると言うと、残念がっています。

 彼の頭の中にはフィクションとノンフィクションが入り交じっているのでしょう。

 我が子ながら面白い。

追伸 サンタクロースを信じる大学生はまずいので、ソフトランディングさせたいと思っています。親のエゴとしては、そう思いませんが。

[]批判のレベル 08:28 批判のレベル - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 批判のレベル - 西川純のメモ 批判のレベル - 西川純のメモ のブックマークコメント

 最近、ネットサーフィンして『学び合い』批判を調べました。私は弱い人間ですので、この手の情報に頻繁にさらされると辛くなります。ですので、知らないようにしています。が、定期的に調べます。

 従来通り、批判にはタイプがあります。

 

タイプ1 伝聞による批判

 実際に『学び合い』を見たこともなく、本も読んだこともない批判。自分の過去を否定されるのではないかと思い、感情的に批判するものです。当たり前ですが、これが一番多い。あまり極端な例は、パロディとして笑えます。可哀想なのが佐藤学先生です。明らかに学びの共同体とチャンポンになっている批判が多い。そして、『学び合い』の特徴を挙げて、佐藤先生を批判する方がおられます。佐藤先生も迷惑だと思ってらっしゃっていると思います。

 

タイプ2 少数事例の拡大

 自分はどうだった、同僚がどうだった、という少数事例から『学び合い』を批判される方です。理論や方法論が正しくても運用しているのは人なのです。特に理論や方法論に反した『学び合い』(?)の責任は負いきれません。『学び合い』が有効なのは、満額やったときのみです。私の本のさりげない1行の注意も、全て膨大な学術・実践データに基づくものなのですから。初心者は、素直に先人の言われたことをやるべきは、どんな習い事も同じです。

 また、実践者が原因ではなく、実践者以外の方の妨害が原因である場合も少なくありません。人の心は弱いもの。そして、『学び合い』は心でやる実践ですから。

 魔女狩りの蛮行を理由にキリスト教を云々したり、テロを理由にイスラム教を云々するようなものです。原典を読むべきです。が、しませんね。

 

タイプ3 よってたつ前提の違いを理解していない。

 自分がどんな前提に立っているのかを理解していないで議論されている方です。その方のおっしゃっていることはまっとうなものが少なくありません。尊敬すべき教師である方も多い。しかし、『学び合い』のことを語る場合、『学び合い』と自分の違いがを理解して欲しいと思います。

 『学び合い』の前提は、「一人も見捨てない」ことを大前提としています。

 学生からタイプ3の方の意見に関して、どう思うかを聞かれることがあります。私の返答は単純です。「それが全ての子どもが出来ること?全ての教師が出来ること?」です。それで納得してもらえます。

 例えば、虐めに関してです。

 「虐めは無くならない。それが現実的な現状認識。だから、虐めを出来るだけ少なくする、現状の実践の改良をしよう」

 という立場と

 「虐めはなくすことが出来る。虐めをなくすために、実践を根本的に改革しよう」

 の違いなのです。

 後者の立場は倫理的には正しいし、建前論的にも正しい。でも、前者の立場の人から見れば理想論に過ぎるのでしょう。そして、現状の実践を根本的に改革することは無理だと考えます。

 ただ、前者の人も「虐めは無くすことは無理と諦めていいのですか?今のままでは無理なら、根本的に変えましょう。だから、無くすにはどうするべきか議論しましょう」と言われると嫌がる。虐めを容認することを認めることはイヤだし、だからといって、自分には荒唐無稽と思われることを議論することは嫌がる。

 

 その他、『学び合い』を批判する方の代表的な前提をいくつか紹介しましょう。

 

 教科内容に関して、「その教科の背景とする学問を教えることが正しい」というものがあります。私は公教育においては必ずしも正しくないと考えています。公教育で教える内容は法で定められるものです。例えば、以前、ある方々が数学的に正しいか否かで議論しているのに対して、法的にどうかと議論することを提案しました。そのとたんに感情的になられました。仕方がありません。人類史上、もっとも成功した宗教は数学と自然科学だと私は思っていますので。

 でも、学校教育法施行規則を変えれば数学自体を教えなくなることも理論的に可能です。そして施行規則は省令ですので、文部科学大臣が決めることが出来ます。つまり、国会に無関係なのです。

 その教科の詳細は学習指導要領で定められていますが、非常に自由度が高い。

 私は「その教科の背景とする学問を教えることが正しい」と考えること、それから派生する背景とする学問での「深い読み」、「論理的思考力」を大事にしたいという立場を理解します。ただ、絶対的では無いと思っています。そして、それを吟味する基準は背景とする学問ではなく、「一人も見捨てず」であると思っています。それを決めるのは、今後の社会の有り様だと思っています。

 

 また、「教師は教えるのが仕事だ」、「子どもは黙って先生の話しを聞く必要がある」と仰います。しかし、教育基本法、学校教育法、学校教育法施行令、学校教育法施行規則、学習指導要領のどの条文にも、それは書かれていません。「いままでは、そうだった」というだけのことです。それを指摘すると嫌がります。

 

 また、「教師は教えるのが子どもよりうまい」という学術的には明らかな誤りも、「いままで、そうだった」という根拠の本に信じ切っています。

 

 私としては健全な議論をしたいと願っています。ただ、今までの経験で、それが不可能であることも理解しました。研究者ですら、その研究のパラダイムを侵されるとき、感情的になるのはクーンの研究を引用するまでもありません。

 

 これは前提の違いです。ユークリッド幾何も非ユークリッド幾何も、その公理の中で世の中を記述し、予想することが出来ます。見ている世界が違います。

 時間をかけて、中間層の方がどちらを選ぶかで決まります。

 今おかれている日本の社会状況から勝てることは確かです。だって、今の実践の延長上を一番求めているのは教師であり、その現状を不満に思っているのはそれ以外であり、その人数比は1対199で199の人の不満は単調増加ですから。問題はそれにどれだけ時間があるかが分かりません。

追伸 客観的な事実を一つ。最も小規模の地方大学の一人の教師がはじめたことが日本中に広がった理由は一つです。有効だからです。願うことが共感されるからです。

本に書いたとおりやれば、本に書いたとおりになることを経験した人が多いから、広がったのです。