■ [大事な事]教師の仕事
医者の仕事は注射や聴診器で聞く事ではありません、病気を治す事です。病気を治すのに注射や聴診器が不必要なら使うべきではない。教師の仕事は発問や板書ではありません。「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」(教育基本法第1条)です。
かつてある教師と話し合ったときです。子どもは多様で、子どもにフィットする説明は多様である事を話しました。それは認めました。次に、一人の教師で多種多様な説明をすることは物理的に不可能である事を話しました。それも認めました。塾・予備校・通信教材は普及し、保護者の半数は4年制大学の卒業生であることを話しました。そして、学校の勉強の大部分は成績中の下に合わせており、その程度ならば教えられる子どもが2割はいる事を話しました。それも認めました。だから、教師が教えるより、子ども達が学び合う方が分かる子が増えることを話しました。それも認めました。しかし、教師は教えるべきだと言い張りました。ビックリして、「教師が教える方が分からない子が増えるのに、それでも教師が教えるべきか?」と聞くとうなずくのです。理由を聞くと、「教師は教える事が仕事だから」と。呆れて二の句が継げませんでした。
追伸 その方は、話していて一斉指導の授業者としてはかなりのレベルと感じました。子どもの事も考えている良い教師だと思いました。しかし、固定観念を捨てられません。それ以降、分からない教師は実証的かつ論理的に説明しても分からない事を理解しました。理解力が無いのではありません。理解したくないのです。
■ [大事なこと]違い
多くの授業実践は、面白い授業、分かりやすい授業を目指します。『学び合い』は子ども達の一生涯の幸せを目指します。多くの教師は、面白い授業、分かりやすい授業の先に子ども達の幸せがある、と「ぼんやり」と思っています。しかし、『学び合い』では現状の、面白い授業、分かりやすい授業の先に子ども達の幸せは無いことを知っています。
両者の違いは特別な支援を必要とする子どもに対する指導に端的に表れます。
自閉傾向のある子ども、ガヤガヤした音に敏感な子どもがいたら、その子が他の子どもと協働的な学習するのを避けます。嫌がるからです。重篤になれば、不登校になる可能性もあります。だから、その子にとって面白い授業、分かりやすい授業をします。
でも、その子はやがて社会に出ます。社会に出たとき、他の人と関わることを嫌がる状態で生きられるでしょうか?生きられません。だから、その子も協働的な学習の輪の中に入れなければならないのです。
多くの教師は「そんなのは無理」と思うでしょう。
でも、我々は無理と考えたら、その子の一生涯は幸せにならないと考えます。だから、なんとかします。どうしたらいいでしょうか?そんなの分かりません。一人一人の子どもは違いますから。教師の出来るのは、「一人も見捨てずに」の意味を語ることです。子ども達がトライアンドエラーの中で解決します。子ども達は有能ですから。
私も二十年前の『学び合い』研究のきっかけになった研究以前は、教師が様々な手立てを繰り出すことによって授業改善をするべきだと思っていました。しかし、社会に出てから、そんなことをしてくれる人はいません。だから、社会に出る前に、そんな手立て無しで問題解決できる子どもを育てなければなりません。そのためには、教師の管理下で、教師の手立て無しで問題解決をさせねばならないのです。
だからスマホにアプリをインストールするように、教師が様々な授業手法を自らに加えるのではなく、OSを変えるのです。そのOSとは「一人も見捨てないことは得だ」というOSです。教師が確信を持ち、語れば、子ども「集団」のOSが変わります。そのOSの中で子ども集団が様々な学習手法を自らに加えるのです。それが子ども達の一生涯の幸せに繋がります。そして、子ども「集団」はそれが出来ると信じています。
追伸 残念ながら、アプリをインストールするように『学び合い』を取り入れようとする人は少なくありません。まあ、アプリレベルでもかなり強力です。しかし、一定以上には進めません。OSレベル、つまり、考え方レベルで分からないと。何故なら、子どもの一生涯の幸せとは何かを理解し、それに矛盾のない行動していないと、語りに現れます。それが出来るならば、主体的な子どもに育ていますが、それが出来ないならば教師の繰り出す授業手法に依存的な子どもが育ちます。