■ [大事なこと]その後
ゼミ生の写真を見ていると、可愛い、という気持ちに満たされます。
が、私はあと5年で退職です。3年間の免許プログラムの子どもを受けるられるのは、あと最大2年。学部生、院生を受け入れられるのはあと最大3年。
その後は、きっとなんであんなに頑張っていたんだろうと思うと思います。その後は、自分と家族の時間を充実させる時間に割り当てます。私は十分やり尽くしましたから。
■ [大事なこと]こだわり
私は「一人も見捨てない」という言葉を使います。それは見捨てられた子どもがどうなるかを知っているからです。私は面白い授業、分かりやすい授業を目指しているのではなく、誰一人として見捨てられない教育を目指しています。だから、拘ります。
■ [大事なこと]『学び合い』か否か
一人で『学び合い』を実践している人から、「私の『学び合い』は本当の『学び合い』なのでしょうか?」と聞かれることは少なくありません。でも、家元制度ではないのですから、誰かによって認定されるものではなく、自分で判断すればいいのです。
分かりやすい判断基準は以下の通りです。
1) 一人も見捨てるなと子どもに求めているか?
これは実践が進むと「一人も見捨てないのは得だ」となります。そして、私の本だったら「学歴の経済学」、「アクティブ・ラーニング入門」、「サバイバル・アクティブ・ラーニング入門」、「2020年激変する大学受験!」で書いているような今後の社会のことを語ります。
2) 教科の内容を相対的に見られます
『学び合い』は面白い授業、分かりやすい授業を目指しているのではなく、子どもの幸せを目指しています。だから、その教科の蘊奥・奥義を教えることを目指しているのではありません。「その教科の蘊奥・奥義を教えること」を全面否定はしませんが、一人残らず全員の幸せを願うならば、「その教科の蘊奥・奥義を教えること」を持ち出しません。
3) 子どもに任せる時間が長い
子どもに任せる時間は、子どもをどれだけ信頼しているかと比例します。これは自分の限界を理解しなければなりません。そのためには、子どもには多様性があり、全員がその子にあった指導を求めていることを理解しなければなりません。それが理解出来れば自分には無理だと理解出来ます。「でも、子どもに出来るだろうか?」という不安は、『学び合い』は2割の学力的にも高い子どもを納得させ、その子達が6割の子どもを動かし、8割の子どもが残りの2割の子どもを動かすという構造を理解しなければなりません。ただし、校長からの命令で出来ない場合は除外されます。その状況で出来る範囲のことをやればいいのです。
以上は、願い、学校観、子ども観に対応するものです。
『学び合い』は対象と期間によって多様です。
対象に関しては、最初はクラスの子どもの中のグレーゾーンの子どもを除外してしまいます。それを含んで考えられるか否か?特別支援学級の子どもを含んで考えられ、特別支援学級・特別支援学校は最終的にはなくなればいいと考えられるか否か?また、保護者・地域の人を巻き込んだ地域コミュニティを視野におけるか否か?
期間に関しては、その時間を視野においているか、単元か、1年間か、その学校を卒業するまでか、10年後か、20年後か、30年後か、それ以降か。私は「一人も見捨てない」という言葉を使います。きつい言葉です。でも、私はそれを使います。何故なら、私は子どもの一生涯を視野において考えているからです。高校教師の時、学校からドロップアウトした子どもが、どんな奈落に落ちるかを嫌と言うほど見てしまいました。その後、日本中の子どもがそのような奈落の縁にいることを知りました。それを救うには義務教育段階で中学校区レベルでの地域コミュニティの構築、高校の学区レベルでのローカルエリートによる地域コミュニティのネットワークが必要だと確信しています。このレベルの視野を持てば、「一人も見捨てない」という言葉は当然となります。
以上の様な実践をすれば、教科学習での子どもの姿を見て、感激の涙を流せます。こうなると、もう、不治の病です。
追伸 「私の『学び合い』は本当の『学び合い』なのでしょうか?」という人への最善のアドバイスは、『学び合い』の実践者に直に合って話し合うことです。それも出来るだけ多くの人。そうすれば安心しますし、次の路が見えてきます。