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2019-10-12

[]責任 21:56 責任 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 責任 - 西川純のメモ 責任 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 教員のイジメ問題より、校長の人事権を制限する方針だそうです(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191011-00000014-kobenext-soci&fbclid=IwAR0NzL8g1BXKIPfv0Dx5ny0YYT1UD7sMI4W4OU0QGGO4hSTeHQYSUxw7BF4)。

 制限した後に、同様な問題が起こったとき、教育長は辞任しませんよね?義務教育課長は辞任しますか?しませんよね。きっと地元の大校長になりますよね。で、人事権のないその学校の校長が責任を負う。

 今回の事例の場合、校長、前校長は逃げられませんよね。まだいいとおもいませんか?

[]動的平衡 19:08 動的平衡 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 動的平衡 - 西川純のメモ 動的平衡 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』は今の授業の方法も考え方も劇的に違います。多くの方から、何故、そのことに気づいたのかを聞かれます。私の応えは、子どもたちに教えてもらった、です。解説が必要ですね。

 実証的研究の場合、実験群(つまり、意図的に仕組んだ取り組み)と統制群(従来の取り組み)を設け、両者を比較し、実験群の方が勝っていることをデータで示す方法をとります。ところが西川ゼミでは『学び合い』にシフトする前から、その方法を捨てました。理由は、統制群の子どもたちに申し訳ないからです。だって、実験者である我々は統制群の方が劣った結果になると十分な根拠から予想しているのです。そんなことを子どもに出来なかった。その代わりに、取り組みの当初から時系列で分析し、その変化によって証明する方法論を採りました。つまり、時間を追うごとに子どもたちがよくなっている姿をデータで示すのです。そうすれば全員が実験群になるからです。

 もう一つの特徴があります。我々は「子どもたちは有能である」という子供観によってたっています。従って、こちらで仕組みません。子どもたちには全員達成が大事なことを語り、求めます。方法は彼らに任せたいのです。子どもたちは一人一人多様な方法を採用してトライします。よい結果をもたらしたものは周りの子どもに伝搬します。その中で自ずと、その状況における解決策が生み出されるのです。それは今までの授業とは全く異なっていますが、冷静に考えれば至極当然なことをやっていたのです。

 それが『学び合い』のコアな部分なのです。

 我々は自分たちの限界を知っていた。だから、子どもたちを信じたのです。少なくとも自分たちが考えるより、「まし」なことを生み出すことを信じられた。これが西川ゼミのオリジナリティなのです。

 振り返って、日本の文部行政を考えましょう。文部科学省、都道府県教育委員会、各種委員会の方々は正解を持っているのでしょうか?失礼を承知に申します。残念ながら実証的データによって、その有効性を示したものを寡聞にして知りません。多くは、ナイーブ(素人的)な常識論に基づくものです。典型的なのは少人数学習です。教師対子どもの比率によって成果が変わるという考え方です。残念ながら、その効果を示す学術データを知りません。少なくともかなり一般性の高いデータを知りません。むしろ、それは有効でないというデータは存在しています。

 だったら、解決方法に関して各学校、各教師に任せてはいかがでしょうか?その代わりに結果を評価すればいい。

 今の文部行政では、お上からの指令に従うか否かは厳しく評価しますが、その結果の評価はほとんどなされません。だって、その結果を評価したら、お上の指令が有効でないことがあらわになるからです。ということで、誰も責任を負わない指令が学校、教師に降りてくるのです。一方、改善しようと思わない学校、教師にとってはありがたいです。だって、結果責任を問われないのですから。

 ということで、今までの試みは、ことごとく失敗しています。いや、失敗したこと(逆に言えば成功したこと)は実証的に明らかにされずにいるのです。

[]人事 07:00 人事 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 人事 - 西川純のメモ 人事 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 教員のイジメ問題より、校長の人事権を制限する方針だそうです(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191011-00000014-kobenext-soci&fbclid=IwAR0NzL8g1BXKIPfv0Dx5ny0YYT1UD7sMI4W4OU0QGGO4hSTeHQYSUxw7BF4)。しかし私は、校長から人事権を取り上げる決定には反対です。もちろん、教諭の希望が尊重されることが前提ですが。今回の問題は、人事制度の問題とは思いません。司法が関わることを嫌がる文化の問題だと思います。保護者との関係も同じですが、司法で黒白を定める文化に移行すべきです。なんで、傷害事件が「いじめ」に矮小化するのか?ニュースでも「いじめ」ではなく傷害とすべきだと思います。

 私は校長に大幅な権限を与えるべきと考えます。そして、それに見合った評価を受けるのです。今から8年前に書いたことです。(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20111230/1325229840

 なんども書きましたが、「個性化」「総合化」「非同時化」「分散化」「適正規模化」「地方分権化」が脱工業化社会のコードであり、工業化社会のコードは「規格化」「分業化」「同時化」「集中化」「極大化」「中央集権化」なのです。地方分権化に移行すべきです。

追伸 工業化社会の人は、上記を書くと「質保証」と言い出します。公的な広域通信制を設ければいいだけのことです。子どもと保護者に選択権を与えるのです。