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価値観

 アマゾンには色々なものが売っています。ワインでどんなものを売っているかを調べたら、最高値は1953年もののリシュブール・グラン・クリュ グリヴレで165万円でした。これを買って飲んでいる人がいるのでしょう。みなさんは理解出来ますか?

 どうせ翌日には小便になるのです。我が家では300円のワインを飲んでいます。なかなか美味しいです。記念日には2000円程度のワインを飲みますが、確かに美味しい。でも、300円のワインの7倍美味しいとは思いません。収穫逓減の法則の法則から言って、2000円と5000円の差は小さくなり、5000円と1万円の差はさらに小さくなります。ということで1953年もののリシュブール・グラン・クリュ グリヴレを呑んでいる人に対して羨望を感じません。むしろ哀れみと、幾分かの軽蔑を感じます。

 オリンピックの開会式のA席の価格は30万円です。野球の決勝のA席は67500円です。私にはこれを買う方に対して羨望を感じません。むしろ哀れみと、幾分かの軽蔑を感じます。

 ワインもオリンピックも、そのもの自体の価値というより、他者の価値観に影響されています。そして、搾取されているのです。もっと残念なのは経済的にそのようなオリンピックのD席ですら購入できない人が残念だと思うことが切ない。規格化の工業化社会のコードに支配されている限り、貧しさを感じる人がどんどん増えていきます。

 私はかなりの額の投資をしています。ETFを使った長期分散投資をすれば、165万円で年間8万円以上のリターンが期待出来ます。300円ワインだったら270本以上買えます。67500円で3千円以上のリターンが期待出来ます。300円ワインだったら10本以上買えます。

 他人に搾取されるのではなく、自らが富を生み出す手立てを積み上げることを理解出来なければ、今後の日本で貧しさから逃れられない。

 ということでオリンピックが嫌なのです。

工業化社会のコード

 池江璃花子さんが白血病から復帰し、オリンピックの代表になりました。このニュースを聞いて単純に嬉しくなりました。彼女が涙ながらに語る姿にもらい泣きしました。しかし、一日たつと、「嫌な」気持ちでニュースを見ています。もちろん、彼女に責任ではありません。オリンピックという工業化社会のコードが嫌なのです。

 メジャーなスポーツには全国大会、世界大会があり、それによって多くのお金と利権が生まれます。そのような大会があれば、勝つ人もいますが、圧倒的大多数は負けてしまいます。それでもスポーツする意義があるのでしょうか?

 全面的に否定するつもりはないですが、県大会、全国大会、世界大会をなくし、地域コミュニティー内部での趣味としてのスポーツになったらいいなと思います。

 去年の甲子園ではトーナメント形式ではなく、1試合だけとしました。その結果として、勝ち負けではなく、競技すること自体に意味が生じました。それをもっと拡大したものです。

追伸 私は体育が嫌いでした。ところが大学の体育授業は好きでした。理由は勝ちに拘らなかったからです。小中高の体育では同級生をリードする人達は勝ちに拘り、スポーツが不得意な私は居場所がありませんでした。

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補足

 私は「県大会、全国大会、世界大会をなくし、地域コミュニティー内部での趣味としてのスポーツになったらいいなと思います。」と書きました。その真意をご理解いただくために、補足します。

 工業化社会においては県大会、全国大会、世界大会もそれなりの意味を持ちます。しかし、脱工業化社会において意味を失うと思っています。

 理由は色々です。一つ一つ説明します。

 工業化社会は規格化の社会です。もし、多くの人が一つのものに価値を見いだせば希少性が生まれます。結果として、大多数の羨望が少数の人の満足を与えます。県大会、全国大会、世界大会となれば利権が生まれ、搾取が行われます。私にはオリンピックの観戦のための入場券が数万円単位になることをクレージーだと思います。

 次に、未来社会で一番価値があるのは、地域コミュニティーにおいける多様で多数の人的ネットワークです。それの育成の集中・効率化するためには、県大会、全国大会、世界大会は非効率です。

 少子高齢化する日本においては工業化社会の価値観では大多数の人が貧しさを感じながら生きることになります。少子高齢化する日本において幸せになるには、「個別最適化した価値を一人一人が生み出せること」、「地域コミュニティーが老後までの生活を保障する」の二つが必須事項だと考えています。

 それ故、県大会、全国大会、世界大会のいずれにおいても興味を持たず、むしろ嫌悪感を持つのです。一人一人が個性的な価値観を持つならば、県大会、全国大会、世界大会なんて成り立つわけありません。

 私の描く未来像は、トフラー、ドラッカー、コリンズ等に影響を受けていますが、具体的なイメージはホーガンの「断絶への航海」が最も影響を与えてくれました。あれを読めば、県大会、全国大会、世界大会なんて未来社会に入り込む余地はありません。そもそも中央集権的な政府すらもないのですから。金銭もなく、搾取もありません。未来社会での富は、尊敬と感謝なのです。

賞味期限

 学び手と教え手の認知的ギャップが適度であるとき学習は成立します。これはヴィゴツキーや認知心理学の示すものです。

 この年になっても、ガンガンに進歩しています。自分の考えていることを冷静に分析すると笑います。「おまえは何なんだ」と。先に進みすぎたのかも。普通は学び手の進歩に教え手の進歩が追いつけないから賞味期限が来る。でも、不遜ながら思います。教え手の進歩に学び手の進歩がついて行けない。ついて行けなくとも、イノベーターとアーリーアダプターは香りを感じるはず。結局、私がだめなのかなと思います。

 今から書こうとする本の原稿のことを考えながら、少し、落ち込みます。

 もし、私が理科教育学の世界にとどまっていたら、とても安泰だったんだろうな。