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2001-10-23

[]教員養成学部の明日、明後日 14:38 教員養成学部の明日、明後日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教員養成学部の明日、明後日 - 西川純のメモ 教員養成学部の明日、明後日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 最近ある教育センターに行った際、そこの先生から「上越教育大学はどうなるんですか?」という質問を受けた。相当に真剣・深刻に質問されたので、「大学職員にとっては生き死にの問題ですが、センターには関係ないでしょ?」と逆に質問したところ、高校進路指導先生がその情報を真剣に求めているそうです。受験生にとっては合格した○○大学が、数年後に無くなるとなったら大変です。無くならない大学に進路変更したいと思うのも当然です。そのため、高校側としても真剣なんです。聞いてみて納得しました。そう考えると、うちの卒業生にとっても関係することだな。また、今後入学を考える人にとっても大事だなということに気づきました。そこで、私のような下っ端でも分かる範囲を整理してみました。もちろん、秘密事項はありません。ちゃんと調べれば各種ホームページに書いてある範囲を超えるものではありません。ただ、それらの文章の多くはお役人言葉ですし、表面には書かれていない影響は読みとりにくいので、それなりの意味はあると思います。

 現在、教員養成系大学・学部は3つの大波を受けています。第一は「教育学部統合」、第二は「大学統合」、第三は「独立法人化」です。

 教育学部統合とは、現在ある教員養成系学部を統廃合して効率化することです。現在まで1都道府県に1つの教育学部が原則となっています。しかし、最近少子化の影響で各学部の定員は減少し100名程度になっているところもあります(上越教育大学も200名から160名に削減されました)。ところが、学生定員を削減しても、それにかかる予算はあまり変化がないのが現実です。例えば、理科中学校の教師を1人養成する場合も、100人養成する場合も、最低一人の物理担当教官が必要だと言うことは変わりありません。結果として学生定員を200名を100名にしたとしても、教える教官の数はあまり変化がありません。しかし、この逆もまた「真」なんです。つまり、仮に学生定員100名で教官定員100名の二つの大学を統合し、学生定員を200名にした場合、必要となる教官定員は約100名でいいことになります。つまり、人件費が約半分になります。そのため、現在100~200名の教育学部を統合し、ある程度のスケールにすることによって経費が大幅に削減することが出来るわけです。簡単に言えば、僻地校の統廃合のようなものです。

 大学統合は「教育学部統合」の拡大版です。統合によって足腰の強い大学をつくり、諸外国に互していくだけの研究を推進することを目的としています。先の「教育学部統合」も同じですが、各大学は「とちらが統合する側になるか」また「統合される場合は、どのような条件で統合されるか」でしのぎを削っています。といっても、全ての大学が「統合する側」になりたがっているんですから、クラス全員が「4番バッター」をやりたがっている野球チームと同じでチームになりません。

 独立法人化は国立大学が、収支評価を受ける組織になることを意味します。簡単に言えば電電公社NTTになるようなもんです(そこまで極端ではありませんが)。そうなると、金が稼げなければ潰れるしかなくなります。下々の教官にとって気になるところは、給料はどうなるか?くびはあるのか?というところです。それは「給料仕事により変わり、くびもある」という説と、「結局いまとほぼ同じ」という説がありますが、おそらくはその中間あたりなんでしょう。少なくとも今よりは厳しい競争的状況におかれるのは確かです。

 決定期限の順番は、「教育学部統合」、「大学統合」、「独立法人化」の順序です。一番最後の「独立法人化」は平成16年度ですから、その骨格は平成15年度の半ばまでには出来てなければなりません(実際は諸般の事情でそれ以前になるかもしれません)。つまり、再来年までには、今とは全く異なる大学地図が出来るわけです。

 面倒くさいのは、決定の順番は「教育学部統合」、「大学統合」、「独立法人化」なんですが、決定の優先順序は「独立法人化」、「大学統合」、「教育学部統合」の順序なんです。つまり、「独立法人化という組織になった時に生き残れる大学の姿は何か?」がまずあって、それに基づいて「どのような大学組織をつくり、そのためにはどこと統合するか」があり、それに基づき「教育学部をどうするか、そのためにはどこと統合するか」があります。

 もう少し分かりやすく説明しましょう。大学の学部の中でも「医学部」、「工学部」などは独立法人化してもやっていけます。ところが、「教育学部」などはあまり金を稼ぐことは出来ません。となると、大学全体としては「教育学部なんぞはいらない。廃止するか、他大学に統合してもらって、うちから切り離したい」というのが本音だと思います(少なくとも、そう思っている他学部の教官は少なくないと思います)。一方、教育学部はもちろん、「統合する側」になりたがっています。つまり、大学全体としての希望と、教育学部希望が必ずしも一致していません。そのため、多くの教育学は、「こうしたい」と思っても、それがとうるか分からない状態ですので、行き詰まり状態です。最近は、教育学部先生が集まると、「お宅はどうなります?」とかか「うちは○○大学と一緒になろうとしている」といううわさ話が持ちきりです。しかし、確度の高い情報だと言われた話が、数日後には全くのチャラになっている状態です。全くの憶測ですが、大学トップレベルの人もどうなるか訳が分からない状態でもがいているのではないでしょうか?となると下々の教官が分かるわけはありません。だから、「どうなるか?」と大学教官に質問しても無駄なことです。仮に、自信ありげに話される情報を聞いたとしても、9割がた割り引かなければならないと思います。

 だけど確かなものもあります。それは、今以上に大学、そして教官個人が競争環境におかれるということです。一人一人の教官は、その中で生き残れる競争力を獲得する必要があるということです。この状況は「災難」ともみられるし、「機会」ともみられます。はたから見ていると暢気そうな大学教官も、実は、大変な時代に遭遇しています。(だから助けて!)

[]オッカムの剃刀 14:38 オッカムの剃刀 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - オッカムの剃刀 - 西川純のメモ オッカムの剃刀 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 「オッカムの剃刀」という言葉をご存じですか?「必然性がなければ、もっとも簡単な仮説ほど真実だと判断すべきだ」という基準です。別ないい方で言えば、「 単純な(エレガントな)説明は、複雑で込み入った説明よりは正しい」ということです。14世紀のイギリス哲学者、オッカムのウィリアムWilliam of Occam が最初に提唱したものです。無駄な仮説をじょりじょりそり落とすという意味で「剃刀」という表現が用いられているようです。

 最近の私の「オッカムの剃刀」は、「生物学的に正しいか」と言うことと、「自分に置き換えてみて正しいか」ということです。我々は教室における学びを観察します。その際、猿の群として妥当性があるかという基準で正しいか、正しくないかを判断します。また、教室における様々な人間関係を、自分の今いる人間関係に置き換えて判断します。これが非常に有効です。問題は、「ヒトは動物とは違う!」、「子どもと大人は違う!」という囚われからどうやって脱却するかです。「ヒトは動物とは違う!」、「子どもと大人は違う!」が全面的に間違いと言うつもりはありません。しかし、「ヒトは動物とは違う!」、「子どもと大人は違う!」と考えてもいいことは何もおこらないんです。強いて挙げれば、「違うから分からない」というように、考えることを先延ばしにすることは出来ます。