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2004-05-07

[]祈り 16:08 祈り - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 祈り - 西川純のメモ 祈り - 西川純のメモ のブックマークコメント

 多くの人がそうであったように、青春時代宗教に興味を持ちました。中学校の2年ぐらいから、宗教に関する本を読みあさりました。最初は、聖書釈迦物語レベルでしたが、高校生になる頃には親鸞道元日蓮の著作や法華経の現代語訳、宗教論に関する本を読むようになりました。読めば読むほどわけが分からなくなります。その最大の理由は、偉大な神の存在を、神から見たら「へ」みたいな人間言葉を借りて語っている点です。それゆえ、本当に信じ切れないんです。それでも、亀井勝一郎八木重吉のように宗教に強く影響された本は最後まで引かれました。結局、大学の学部の際に私なりの結論を得ました。それは、人間の測り得ない知恵と力を持つ存在はいるのだろうということです。ただし、人間が測り得ない存在なんですから、擬人化出来るようなレベルではありません。また、人間言葉で、その存在を描ききれるものではないように思います。したがって、世にある多くの宗教の違いも、人間言葉で書かれたレベルなのですから、神から見たらちっぽけな違いなのかもしれない、と思い始めました。例えば、一定のお題目を唱えれば功徳があるとする宗教は少なくありません。しかし、それらのお題目の違いは、人間か聞ける範囲内の狭い音域の違いに過ぎません。そんな違いに拘って、神が、あるお題目を言った人を救い、別なお題目を言った人を救わないと言うようなことは無いように思います。繰り返しますが、神はとてつもない存在である、というのが私の第一の結論です。そして、二つ目の結論は、神は自分を含めた人類を愛しているというものです。この二つ目の結論は、第一の結論矛盾します。だって、人間レベルの「愛している」に神が考えが一致するというのは、神を矮小化したものです。でも、その矛盾を理解しつつ、神は自分を含めた人類を愛しているということを信じています。理由は、そうでなければ、「やってられないから」です。とてつもない存在である神が私たちに無関心であったり、ましてや、悪意を持っていたならば、救いは全くないからです。

 以上は私の結論で、結果として、極めて汎神論に近い感覚を持っています。全ての宗教は、想像を超えた神を、神から見たら「へ」みなたいな人間が捉えた、側面の一つに過ぎないように思います。しかし、一つの側面であっても、それは、それなりの敬意は払うべきものであ り、神の姿をある面では表していると思います。だから、教会に行っても、お寺に行っても、神社に行っても、まったく矛盾無く手を合わせられます。極めて、日本人的とも言えます。ちなみに、私の祈りの言葉は「神様、仏様、ご先祖様」というものです。多神教のようですが、そうでもありません。一神教代名詞であるキリスト教であっても、「神と子と 聖霊」を三位一体として捉えているんです。私の「神様、仏様、ご先祖様」も、三つを並べていますが、三つであり、一つであり、百億、千億でもあり、無限というものです。

 昨日は、息子の生まれた日です。何度も、何度も、「神様、仏様、ご先祖様、感謝します」と祈りました。ど素人の罰当たりな宗教観かもしれませんが、私にはしっくりいっています。

[]子どもに任せるのは難しい!? 16:08 子どもに任せるのは難しい!? - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 子どもに任せるのは難しい!? - 西川純のメモ 子どもに任せるのは難しい!? - 西川純のメモ のブックマークコメント

 よく、現場先生から、子ども話し合わせて任せると大変だということを聞きます。しかし、よく聞くと、子どもに任せるのが難しいのではなく、先生自身が難しくしているように思います。

 例えば、総合学習で教師は何らかの理由で「地域の川を調べよう」というテーマでやらそうと考えます。その時大変なのは、子ども達に自由に話し合わせ、結果として「地域の川を調べよう」というテーマに落ち着くよう、誘うことが大変だと考えているようです。そのような結論に落ち着くよう、事前に色々な話をしたり、活動をさせたり大変です。子ども達の話し合いの動向がずれたりすれば、あわてて修正しなければなりません。子ども達の発想は、どのような方向に行くか分からず、その行きそうな方向に、それなりの伏線を用意しなければなりません。たしかに、とても大変です。だから、子どもに任せるのは大変だとおっしゃいます。では、どうしたらいいのか?簡単です。最初の段階に、子ども達に「地域の川を調べよう」というテーマでやろうと言うことを話せば良いだけのことです。でも、それでは子ども達の自由な発想がいかせられないと言う先生がいます。しかし、教師が設定した狭い結論に無理矢理ひきこむのが、自由な発想なのでしょうか?そんだったら、最初に子ども達に「地域の川を調べよう」にしなければならないと、正直に言う方がフェアーではないでしょうか?それに、そのようなことにエネルギーを費やすなんて非生産的です。むしろ、「地域の川を調べよう」という限定の中で、どれだけ子ども達の自由な発想を生かすことを考えた方が生産的です。そして、「地域の川を調べよう」という限定が本当に必要なのか、もう一度考え直すことの方が、総合学習とは何なのかを本質的に考えることのように思います。

[]仕組む 16:08 仕組む - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 仕組む - 西川純のメモ 仕組む - 西川純のメモ のブックマークコメント

 大学院に関して、西川研究室の2年間の活動には、ある意図があり、仕組まれたものがあります。院生の皆さんは、修士1年の夏と秋に学会に参加し、先輩である修士2年の人の発表を聞きます。これによって、自分が発表するという覚悟が定まりますし、不安が解消されます。そして、この合宿旅行で、より一層仲良くなれます。修士の1年の冬には臨床教科教育学会で、最初の発表をします。そして、修士の2年の夏、秋、冬に学会発表があります。

 うちの研究室院生さんは、修士1年の冬と、修士2年の春に実践研究入ります。そこでデータの山を得ることになります。何もなければ、そのまま、データの山に圧倒され、ずるずると先延ばしにします。ところが、夏の学会があるため、とにこかくにもそのデータの山を使って発表の材料を出さなければなりません。修士2年の春には、そのための申し込みがあります。1ヶ月もたつと、その発表原稿を出さねばなりません。それをクリアーするために、夏の学会までに、なんとか一応のデータ分析をすることになります。学会発表が終わればお盆の時期です。各院生さんは帰省し、のんびりすることになります。何もなければ、そのまんまズルズルとしてしまいます。ところが、秋の学会の申し込み、学会発表原稿の提出、学会発表が待っています。そのため、夏休みが明けたとたんに、データの再度検討が行われます。実は、この秋の学会発表が出来上がると言うことは、修士論文の骨子を作ることとほぼ同じです。秋の学会が終われば、修士論文執筆が始まり、12月までには書き終わります。そのままでしたら、ずるずるしてしまいますが、冬には臨床教科教育学会の発表が待っています。このあたりになると、院生さんもなれたものです。ちょちょいのちょいで発表の用意が出来ます。余った時間に、学会誌への投稿用原稿が出来上がります。そうなれば、最終の口頭試問なんてチョロいもんです。

 以上のようなイベントが「仕組まれて」いるので、指導教官が「論文の仕上がり具合はどう?」なんて、心配しなくても、イベントをこなすうちに自然と質の高いものが出来上がります。そして、その「仕組み」に乗せる過程が、修士1年の学会発表旅行となります。

 非常によい仕組みで、今まで十数年以上、これでやってきています。そして、そうやって「仕組んでいる」ということは、何度も表明していますし、このメモでも書いています。今回も、改めて可視化します。だって、教師の腹の内、手の内は、出来るだけ「さらす」ということは良いことだと我々は信じていますから。そして、そのような仕組みが、場の設定の一つですから。