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2005-06-28

[]楽しい 12:29 楽しい - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 楽しい - 西川純のメモ 楽しい - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある学生さんが、「何故(授業は)楽しくあらねばならない必要があるのか」、『「楽しい」ことは、ゴールへ辿り着くための、単なる動機付けでしかないはず。』と問題提起をしました。素晴らしいと思いました。そうしたら、私が何で素晴らしい、と感激したのは「なんでやねん」と問われましたので、謹んで「応えます」。ただし、その学生さんは『きっと、答なんてないだろうけど、「探す」行為が大切なのであって……。』と書いてあるとおり、答えはありません。ただ、今の段階の私の「応え」なんです。

 私が感激したのは、その問いかけが、単純でありながら、応えるのが難しい問いかけだからです。例えば、ここ数年考えているのですが、まだ、答えが出ない「学び合いを目的とすべきか」という問いもそのような問いです。問いかけを簡単で、短い 言葉で表現出来るということは、それがその領域で本質的な問いかけであることを意味します。難しげな言葉で長々書かねばならない問いかけというのは、枝葉末節な問いかけであることを意味します。そのような本質的な問題であるにもかかわらず、応えるのが難しということは追求するに足るものです。ある数学者から聞いたことですが、数学者の才能は、良い問題を見出し得る人であるそうです。その意味で、この学生さんは優れた才能を持っていると感じます。ただし、良い問題を見出し得る人だけでは一流の数学者には不十分です。その問題を解決して、はじめて才能が完結します。

 私なりの応えを書きます。

 多くの教師が思っている「楽しい」とはどんなイメージなんでしょう。例えば、面白実験本に書かれている「楽しい実験」の「楽しい」に端的に表れています。そこには教師が特定の「楽しい」を与えようとしています。しかし、万人が楽しいと思うような特定のことってあるのでしょうか?おそらく、教師が「楽しい」と思って与えても、それを「楽しくない」と感じる子どもはいるはずです。そして、そのような子どもは、「楽しくさせてあげている」という教師の高慢な臭いをかぎ取るのだと思います。この学生さんは、そのような臭いを感じたことがあるので、先に挙げたような本質的な問いかけをしたのだと思います。

 私は万人が楽しい特定のものは無いと思います。それにもっとも近いものは「人と関わる」事だと思います。これはホモサピエンスの本能に由来するものであり、もっとも一般的なものだと思います。もしも人と関わり合う手段ならば、どんな陳腐なものであっても「楽しく」なります。我々は小さい頃、親にはゴミとしか思えないものを必死になって集めた経験があるはずです。なぜ、それを必死に集めたかと言えば、自分たちの仲間がそれを大事と思い、その仲間と関わり合う手段となっていたからに他なりません。これは大人も同じ事です。ダイヤにせよ金にせよ、それ自体に価値があるのではなく、人間集団との関わりで価値を生じているに過ぎません。

 私の応えです。「何故(授業は)楽しくあらねばならない必要があるのか」を「教師が楽しくさせる必要があるのか」という意味であるならば、それは否です。そんな、させなくとも、子どもは楽しくしてしまいます。ただし、子どもが自ら楽しくなる手段を奪わなければ、という限定付きです。つまり、具体的には人と関わり合える環境を保証することです。もっと具体的に言えば、「静かにせよ!」、「座りなさい!」を言わなければです。ただし、カリキュラムが指定する学習内容に矛盾のない目標を与えなければなりません。教師は楽しいか否かかを考えるより、カリキュラムが指定する学習内容に矛盾のない目標を与え、人と関わり合える環境を保証すればいいんです。

[]詐欺 12:29 詐欺 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 詐欺 - 西川純のメモ 詐欺 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 宮崎駿といえば日本アニメ界の巨匠です。NHKの未来少年コナンすばらしかった。ルパン三世カリオストロの城はシリーズ最高傑作です(今後もあれを越える作品は出ません、なぜなら宮崎がルパン三世を今後出すとは思わないからです)。風の 谷のナウシカは何度見たでしょう(おそらく50回弱は見たでしょう)。その後も傑作を連発しています。彼に比肩すべき人と言えば、手塚治虫、高橋留美子のみでしょう。でも彼に関して残念なことがあります。おそらく、多くの方は忘れたと思いますが、彼は「もののけ姫」のとき引退を宣言し、彼の最終作品であることを売りにして宣伝しました。と、こ、ろ、が、しばらくしたら復帰宣言や何の説明もなく復活しました。私は宮崎作品の大ファンです。それゆえ、彼が作品を出し続けることに関して大賛成です。ただ、引退を売りにした詐欺が気にくいません。しかし、最近、同じことをしているようです。

 スターウォーズのエピソード3が、あたかもシリーズ完結編のような宣伝をしています。今の学生さんは知らないでしょうが、スターウォーズはエピソード4から始まったのです。私が今の学生さんと同じ年頃の時代です。シリーズが4から始まるのは変ですよね。当然、その理由が気になります。その時の説明によれば、スターウォーズは3部作×3で構成されます。エピソード4からはじまるのは、エピソード1~3をつくっている間に、エピソード4~6の主人公が、エピソード7~9の時代設定に合う年齢になれるんです。それゆえエピソード4から始まったんです。ところが、エピソード3の宣伝では、エピソード7~9のことが意識的に忘れ去られています。

 私はスターウォーズが9作まで出来ることを願っています。ただ、シリーズ完結編のような宣伝をする詐欺には気にくいません。もっと、気にくわないのは映画評論家が、そのことを口をつぐんでいることです。結局、辛口評論家と言っている人も、結局、映画宣伝の走狗にしかすぎないのか・・・・

追伸 柳の下の5匹目のドジョウであっても、金になれば捕まえるのが世間です。絶対ににヒットするエピソード7をルーカスが断念するわけありません。万が一、百万が一にも、ルーカスがやらないにしても、だれかはやるはずです。そして、それはハリソンフォードの生きているうちであるはずです。

[]文句を言われない方法 12:29 文句を言われない方法 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 文句を言われない方法 - 西川純のメモ 文句を言われない方法 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は二千人規模の学会の学会誌編集事務を一人でやっています。年三回、学会誌は発行されます。学会誌なんですから、専門性の高い論文が掲載されています。それを読んでも理解できないものが大半です。たとえば、ダスコビットという文字が書かれています。これは誤字でしょうか?もしかしたら、知らないということを言うことがとてつもなく恥ずかしい偉い偉い教育学者かもしれません。また、統計学的な熟語かもしれません。そうじゃないと言い切れる人っています?

 そんな言葉が羅列されている論文が一杯載っているのが学会誌です。そのような論文の原稿が印刷所に行き、ゲラが出来ます。著者と印刷所との連絡の関係です、誤字・脱字が生じる可能性があります。それをチェックしなければなりません。そんなこと私一人で出来るでしょうか?いや、100人の校正者がいたとして、ミスの可能性を0にすることが出来るでしょうか?それは無理です。でも、文句を言われない方法はあります。それはなんだと思います?

 それは、全ての原稿を著者にチェックをさせるんです。つまり、責任を共有することです。仮にミスがあり、そのことを文句を言い出したなら、「え!?あなたもチェックしたでしょ?」で一件落着になります。私は、そのようなチェックシステムを構築しているので、一人で事務局を担当することが出来ます。

 本日、ある中学校から「評定・評価」に関する講演をするよう頼まれました。さっそく、現場の先生の人から、「評定・評価」現場で中学校で困っているところは何かを聞きました。小学校を含めて学校現場における「評定・評価」を改めて、聞きました。正直あきれました。聞いてはいましたが、聞きしにまさる馬鹿らしさです。

 ブルームに端を発する評価の改革は、私が大学院生の時代以前にありました。その当時、原書でブルームの本を読みましたし、その背景となる心理理論も学びました。その当時の評価の現状から考えて、画期的であり、院生の私を感激するに値するものでした。現在の「評定・評価」とは、なんと、その当時の古色憤然たる理論に基づいています。なぜ、そんな古い理論が現在に適用されたかを理解したければ、今から5年弱まえに書いた「最新理論」をお読みください。そこで書いた、善良な研究者が指導要領を書ているんです。

 色々と困っていることを聞きましたが、その中で大きなポイントは、公開性です。つまり、つくった評定・評価を保護者に見せられない点です。そして、見せるために、二重帳簿、裏連絡が横行していることです。それではブルームの本来の趣旨を生かすことは出来ません。彼の本には書かれているのですが、彼を紹介する和訳の本には殆どふれられていないことですが、彼の趣旨は、学校教育を卒業した後も、必要に応じて学ぶために学校に戻るような市民を育成することなんです。

 でも、学校現場の気持ちも分からんでもありません。どんな基準を作ったとしても、保護者からはクレームが来ます。そのクレームが恐ろしいので、限りなく、馬鹿馬鹿しい、曖昧な評価・評定をつくることになります。では、どうしたらいいでしょうか?それは上記に書いたとおりです。問題を解決する方法は、子ども・保護者を巻き込んで評定・評価をつくればいいんです。ポイントは、個別対応にするのではなく、子ども集団、保護者集団と教師(教師集団)が関係を持ちつつ作り上げることです。

 今日、決まった講演では、そんなことを話そうと思います。同時に、Kさんが、私の思いつくレベルの、その先を明らかにしてくれることを期待しています。