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2012-02-11

[]削る 15:07 削る - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 削る - 西川純のメモ 削る - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今の教育研究者、教育実践者は「良い方法は何か?」という問いかけを様々な場面に適用しています。私もそうでした。そして膨大な論文を書きました。それらの研究によって教え方一つで平均点は10点以上上がるのです。驚異的な結果だともいます。多くの学会から賞を頂きました。しかし、それらは平均点の上昇です。全員ではありません。そこで、十年以上前に、一人一人の子どもの誤解を徹底的に調べました。私の当初のもくろみとしては、4、5程度の典型的な誤解を明らかにして、それを併用した指導法を開発しようと思ったのです。それによって1、2の指導法では分かることの出来なかった子どもを全員分かるようにしたかったのです。が、調べれば、調べるほど「一人一人は違う」という結果になるのです。それを無理矢理に数タイプの誤解パターンに落とし込むことは出来ませんでした。結果としては、「一人一人の良い方法がある」という至極当たり前であり、そして従来型指導では永遠に達成できない結論になりました。

 そこで「良い方法は何か?」ではなく、「良い方法を見いだせるのは誰か?」という問いかけにシフトしました。この問いかけのシフトはコペルニクス的転換だと思います。その答えは「本人であり周りの子ども」です。分かったか、分からないかを判断できるのは本人なのですから、良い方法か否かを判断できるのは本人しかできません。そして、本人がそれを見いだせない時には、それを見いだすためには他者との膨大な会話が必要です。それには時間がかかり、一人の教師対数十人の子どもには無理なことです。だから、「本人であり周りの子ども」なのです。

 さて、そうであるならば、「本人であり周りの子ども」に解決のための時間が必要です。何故なら、膨大な会話が必要であり、それには時間がかかるからです。ところが授業時間は45分なり、50分間という限定があります。「本人であり周りの子ども」の時間を確保するには、それ以外の時間を削るしか方法がありません。そこで、従来の教師の発問、板書等の時間をどんどん削りました。私にも従来指導型の囚われがあります。だから、十年以上かけて少しずつ削ったのです。削って、削って最後に残ったのは、「本人であり周りの子ども」がやろうと思わせる「目標の設定と評価」であり、「本人であり周りの子ども」がやろうと思った時にやりやすい「環境の整備」です。

 この「目標の設定と評価」や「環境の整備」も十数年間かけて削ったのです。「目標の設定と評価」の当初は従来指導型と同様に「良い目標の課題があり、良い評価がある」と思っていました。しかし、教科内容ではなく学ぶ意義こそそれだという結論になりました。そして、万人に適応できる学ぶ意義として洗練されたのが現在の学校観です。「環境の整備」も様々なツールがあります。例えば、誰が出来て誰が出来ないと分かりやすくするネームプレートなどがそれにあたります。しかし、本当の環境の整備とは子どもたちのネットワークなのです。子ども集団の能力を信じ、学校観に基づいてみんなを求める、それが「環境の整備」です。そしてそのレベルだったら数ヶ月に一度、程度しか集団への教師の手だては必要ありません。その代わり、常に揺るぎない心で、子どもを「見る」だけで十分です。

 当然、問題は起こります。その時、「良い方法は何か?」という気持ちは起こります。私もです。西川ゼミで問題が起これば、私はパニックになり、どのように解決すべきかという具体的な方法を案出しようとします。が、頭の中でシミュレーションをし始め、一人一人のゼミ生の顔を思い浮かべれば、全てにフィットするとは思えないのです。その中でパニックが徐々に収まると、「良い方法を見いだせるのは誰か?」という問いかけに回帰します。結果は「本人であり周りの子ども」なのです。私ではありません。そして頭に浮かんだ方法を全て捨てて、ゼミ生全員に語ることにします。私が現状をどのように見ているか、そしてどのようにならぬかを。それで解決できるかは分からなくとも、私が「良い方法は何か?」を考えるより「まし」であることは確かです。

 プラスαではなく、ギリギリまで削ることです。

[]理想 15:07 理想 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 理想 - 西川純のメモ 理想 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本人及び周りの子が必死になって考えるようにするのに必要なのは、語る力です。といっても語らなくても良いのです。教師がどのような理想を持っているかがありさえすれば、自ずと伝わるものです。

 本人及び周りの子どもが必死になって考えるようにするには、どんな理想を持てばいいか。それはとてつもない高い志と明日実現しなければならないことの間に、多種多様な志や計画があり、それらが有機的に繋げることです(http://bit.ly/qPr6t1)。

 私はゼミ生に「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、一人も見捨てない教育・社会を実現する」という課題を挙げています。普段は長いので「日本を変えろ」という表現しています。当然、「このオヤジ、狂っているのか?」とか「ま、建前だよね」と思います。が、しばらくすると「このオヤジは本気でそれが出来ると思いこんでいるみたいだし、ゼミの先輩もそれが出来ると思っている。俺はどんな集団に入ってしまったのだ・・・」と思い始めます。が、自分たちが日常的にやっていることが、日本の遠くの人の運命に影響を与えている、という実感できる経験をすることになります。そして、自分にとって得であることを実感します。そのようなことが可能なのは私たちは「日本を変える」という志を持っているから、日本中の志の高い人とネットワークを組むことが出来るからです。

 というと、それは大学だから、と言いたくなるかも知れません。でも、違います。クラスを越えて学校の視点で物事を考えねばならない課題を子ども達に与えることは可能です。いや、郡市レベルの教育を変えたい、と子どもに思わせることは可能です。いや、そのレベルだったら今でも実現しています。でも、それを実現するには、教師自身が子ども達よりも一歩も二歩も、先の理想を持たねばなりません。

 方法は子どもが考えること。しかし、達成すべき目標の設定は教師の専権事項です。その目標の設定は「多様な人と折り合いを付け自らの課題を解決すること」に矛盾しない、多様な人に私はスポットを当てています。

 西川ゼミでは、5年ほど前からクラスを越えて学校レベルのことを考えています。昨年度からは学校群レベルのことを考えており、本年度は実現しました。来年度は、それを拡大・拡充します。そして、来年度から地域コミュニティの再生を本格的に我がゼミの中心に据えたいと思っています。これらはゼミ生集団が自律的に実現できる準備は整いました。

 私は、アーリーマジョリティ向けの情報発信に関してやろうと思っています。それによって、既に開発した学校レベルの『学び合い』の仕組みを全国的に広げたい。それのみが教師一人も見捨てない道だと私は思っているからです。結局、理解には膨大な会話が必要だから。