■ [ゼミ]謹聴
禅の世界では「公案」というものがあります。簡単に言えば、問題です。そして、問題集というべき公案集は古来より禅の世界ではあります。ただ、この問題は本来、正答というものがありません。そして、その答え方は千差万別です。しかし、そのことを理解しつつも、公案という問題が存在し続けています。それは、その問題にどのように答えるかで、答える人の考えていること、レベルが分かるからです。
先だっての金曜日の全体ゼミで、「学び合いを目標とすべきか?」という我が研究室における公案と言うべき問いをみんなに発しまし、多種多様な発言がありました。その場において、ニコニコして、話したげで、でも発言しないTがいました。その際のTの微笑みは謎です。何を考えているだろう・・と思うと、好奇心がわきます。そのTからメールが来ました。以下の通りです。
『金曜日の全体ゼミでの西川先生からの質問ですが,学びあわなければならない高い課題を与えることは悪いことだとは思いません。しかし,その課題設定による学び合いが教師側からの強制ではなく,子どもが学びたいと思う課題設定をしなければならないと思います。はじめの学び合いが強制ケース(学び合いの必然性を持たせているので)だとすれば,次からの学びあいは教師と子ども,課題を解決しようと思う子どもの任意の合意ケースでの学び合いでなければならないと思います。もちろん,学び合いから外れてしまう子どももいると思いますが,学び合っている子ども達の何らかの働きかけにより,外れがちな子ども達も学びあいに参加していくのではないかと思います。データを取ったり,見たりしたことがないのでよくわかりませんが,ここ2,3日間考えた答えです。』
公案は、「そもさん」と問われ、説破と答え、その内容が優れたものだった時、聴衆から「謹聴~、謹聴~」と声が出るものです。ニコニコしている学部生のTが、これだけのレベルの答えを出しました。
追伸 きっと金曜日の段階に、この基本は思い描いているはずです。だったら、その場で言えばいいのに~。おそらくTは、「そのころは良くまとめられませんでした」と言いそうですが、でも、未成熟なアイディアをみんなとともに作り上げるのが、我々の目指している姿の一つだよね。