■ [嬉しい]山梨の会
昨日の夜から、本日の午後、山梨の会に参加し、同志と飲んだ。正直ビックリした。大化けです条件がてんこ盛り。やりようによっては来年には、確実には再来年には数百人を集められる諸条件はそろっている。山梨の同志各位へ。私が何故、これを確信しているかは分かるでしょ。今の諸条件が不十分だなんて、贅沢すぎますよ。ゼミ生によく言う一言です。「出来ない理由を述べよ」と。あるわけありません。
大いに楽しみです。期待しています。
■ [大事なこと]呪縛
ゼミ生と研究のことを話し合っていると、「あ~、良い方法があると思ってるんだな~」と感じることは少なくありません。多くの同志が「『学び合い』をやろう」と決意して、最初にぶち当たる心配は課題です。なにしろ、『学び合い』は極限まで切り詰めた課題を子どもに提示し、あとは子どもたちに任せます。課題が勝負です。となると「良い課題とは何か?」と考え始めます。ま、当然です。が、ゼミ生がそのようなことを言い出すと「その課題は全員に良い課題?クラスには東大に行くかもしれない子もいるし、知的障害が疑われる子もいるよ。その教科が好きな子もいるし、嫌いな子もいるよ。億を稼ぐ芸人を嫌いという人もいるんだよ」と私は聞きます。そうすればそうでないことを気づきます。
我々教師は変わった人種です。現在の学校制度にフィットし、大学まで行って、教員になった人間です。どうかんがえても日本人の典型ではない。そして、教室で手のかかる「あの子」とは違った人種です。その人種が良い課題を考えて、良い課題を考えられるわけありません。そして、それはどんな人でさえそうです。どんな人でも、その人が考えられる良い方法は自分を基準にしてしまいます。でも、自分にとって良い方法を求めれば、その人にとっては良い方法かもしれませんが、多くの人にとっては良い方法ではありません。例えば、ノーベル物理学賞をとった学者が「私は、こうやって勉強したんだ。良い方法だ」とある勉強方法を我々に強いたらどうでしょうか?きっと、「あなたにとってはね。でも、私はあなたのような人ではない」と思うでしょう。これは大学で科学の授業を受けた人の多くが感じたことだと思います。それは、教師が考える良い方法を強いられた子ども同じです。
だから、『学び合い』では「良い方法は何か?」という一般的な問いかけを捨てて、「良い方法を考えられるのは誰か?」と問いかけたのです。この問いかけの変化が革命的な差を生み出しました。答えは「本人であり、本人の周りの子ども」です。では、それを前提として課題を考えるにはどうしたらいいか?それは、どうしても削れないコアは何かを見極めるのです。具体的には、指導要領をちゃんと読むことです。そして指導要領に準拠した教科書をちゃんと読むことです。でも、もっと具体的なのは、指導書や教科書に準拠した問題集を読めば、そこには具体的なテスト問題が書かれています。悩むなら、それを課題とすればいいのです。『学び合い』における課題の難しさは、実はとてつもなく簡単だと理解することが難しいことなのです。
私は「良い課題」を求めるのではなく、むしろ「みんな」が徹底するために、どのように語るべきかを考えるべきだと思います。そのために、自分自身が「みんな」を本気で信じられることが大事だと思います。それさえ集団がしっかりしていれば、シンプルな課題を子どもたちが深い課題に変えてくれるのです。考えてみてください。知的障害と疑われる子どもがどんどんテストの点数が上昇します、そこにどのような会話があるかを考えればワクワクしませんか?お米はチャーハンにも、白粥にも、みたらし団子にも、おはぎにもなります。しかし、一度、チャーハンにしてしまえば、白粥やみたらし団子やおはぎにすることは出来ません。つくれば、相当まずいものが出来ます。
私は、上記のことに関して、相当頑固です。なぜなら良い方法を教師が求めてしまえば、あっというまに元の木阿弥になるからです。なぜなら、そうしようとするのは子ども集団よりも教師の方が有能であると考えているに他ならないからです。そうなったら『学び合い』ではないと思います。『学び合い』における教師の仕事の第一は目標の設定です。その目標は、個人の判断が入り込む余地のない「絶対に達成すべきこと」であらねばなりません。警察が一般市民に何かを求めると同じ覚悟で求めなければなりません。警察官の恣意的な判断で市民に何かを求めたら指弾されます。教師も同じです。だから、課題は指導要領、およびそれと一対一対応することを私は勧めています。
ごくまれに、「良い方法」を認める場合があります。理由は、子どものためではなく教師のためです。ちゃんと説明しても、どうしても子どもたちは有能とは信じられない教師の場合(ま、まともな、大多数の教師です)、おろおろしながら授業するより自信を持って授業する方が良いに決まっているので。ただし、その場合は、その人の実践の推移をモニターできる場合に限っています。モニターして元の木阿弥になりそうだったとき、アドバイスを入れられる状態に限っています。『学び合い』もどきを『学び合い』だと信じ込んで実践されることを私はとても恐れるからです。だから、このブログや手引き書では頑固に書きます。
『学び合い』における課題の難しさは、実はとてつもなく簡単だと理解することが難しいことなのです。
同志のメモ(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/tasho6521/20100806/1281109229)を読み、昨日のある人との会話を思い出してメモりました。
追伸 名人教師は殆どの子どもにとって良い方法となるような課題(そして、その場その場の手立て)をつくる子ども出来ます。でも、それは神のごとき教師にのみ可能であって、凡夫はできません。そして、凡夫はそれを求めてもいけません。さらに、その神のごとき教師であっても全員は無理です。そして、数人はしょうがないと思えるぐらいだったら、私は『学び合い』を追求しなかった。『学び合い』は一人も見捨てない教育だと信じているからです。
追伸2 当たり前ですが、上記は「私」はということです。色々な方が自分の頭を使って、多様な方法で伝えることは良いに決まっています。