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2007-08-24

[]発進! 13:42 発進!    - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 発進!    - 西川純のメモ 発進!    - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日先生を変え、学校を変え、前橋市を変え、群馬県を変えるため、修士1年のFさんが出発しました。Sakさん曰く、Fさんはイスカンダルに出発するそうです。それを聞いて直ぐに、「いそげFよ群馬県へ、日本教育が崩壊するまで、あと●●日・・」と浮かびました。F(ヤマト)発進!主砲三連装ショックカノン、副砲三連装ショックカノン、艦首ミサイル煙突ミサイル、対空用の2連装パルスレーザー、そして波動砲、何でもかんでもぶっ放して、結果を出してね。

[]反省 13:42 反省 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 反省 - 西川純のメモ 反省 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 講演会ではインパクトあるデータ、語りをします。だって、講演会ですから。でも、普通の先生だったら腰が引けるのは当然です。遅ればせながら、それを反省しています。そこで、今度のノウハウ本に以下を書くことにしました。でも、どう読んでもノウハウ本の表現ではない・・・

 『『学び合い』の授業の姿の実際に関しては動画配信をしております。是非ご覧下さい。しかし、それを見ると、「面食らったり」、「混乱する」かもしれません。そこで、今まで皆さんがやっていた授業との関連で『学び合い』を説明したいと思います。

 『学び合い』の授業を一般の人に分かりやすく伝えるとするならば「学力向上も人間形成も全てはクラス作りが基本で、クラス作りができれば、全てのことが全部うまく、かんたんに出来る。」という至極、当然で多くの教師が納得できる表現にまとめられます。そして、そのクラス作りを「いつ」やるのかを考えれば、学校教育の殆どの時間は「教科学習」の時間で占められているのですから、その時間でやらねばなりません。これも当然だと思います。教科学習の時間でクラス作りをするとしたならば、子どもたち同士の関わりの時間を教科の時間において保証しなければなりません。これまた当然だと思います。子どもたち同士の関わりの時間を保証するためには、教師が一方的に話し、書く時間を削減する必要があります。これまた当然だと思います。教師が話す時間を削減するためには、限られた時間の中に何を残すかということです。教師の仕事は、目標の設定、教授(子どもから見れば学習)、評価、環境の整備ですが、今までの一斉指導の中では教授が殆どを占めており、それを残しては、子どもたち同士の関わりの時間を保証することは出来ません。そのため、子どもたち同士の関わりで学習が成立するような、目標の設定、評価、環境の整備に力を注ぎます。

 さて、皆さんの授業を簡単に説明すると、以下のようになると思います。

1)導入

  身近な話題を話しながら、その時間で行う内容に繋げます。落語で言えば「まくら」ですし、「前ふり」にあたります。これを通して、子どもたちの意識を本時の教材に向け、興味関心をわかせます。

2)説明

 算数・数学だと基本的な仕組みを説明し、例題を教師が解きます。国語の場合は、3)の作業にあたる「教科書の読み」が先になるかもしれません。その場合は、作業でやらせたことを教師が意味づけたり、整理し、まとめます。

3)作業

 子どもたちが何かをします。算数・数学の場合ですと、教科書にある問題を解くことがそれにあたります。国語の場合は、単元の物語文を読んだり、要約をまとめるなどがそれにあたります。

 上記の2)と3)が繰り返えします。

4)まとめ

 本時で分かったことを子どもたち答えさせ、子どもたちが分かっているかを確認します。そして、分かったことを黒板に書きます。

 いかがでしょうか?教科や単元によって変化はありますが、大ざっぱに言って上記にまとめられると思います。それでは上記の授業と『学び合い』の違いを順を追って説明します。

 先に述べたように、『学び合い』では2)にあたる説明を出来るのは、教師だけとは考えていません。多様な教育媒体を通して、既に知っている子どもが一定数いると考えています。さらに言えば、日本の指導要領は全国民が学ぶべきことを規定しているものですので、極端に難しいことは求めていません。そして、日本の教科書その指導要領に準拠しております。そして日本の教科書は優秀ですし、副読本・参考書は多様です。従って、それらを利用すれば、自力で理解する出来る子どもがいると考えています。そのような子どもを黙らせて座らせて、一人の教師が説明するということはかなり効率が悪いと『学び合い』では考えています。だから、授業の多くの時間を費やしている説明は大幅に削減できると思います。しかし、今、何を達成しなければならないかということは、子どもは分かりません。そこだけが残ると考えています。

 もし、ある『学び合い』の授業の構造が以下のようなものだった場合、

 導入→説明(但し、作業でやるべきこと述べることを中心にしており、極めて短時間)→作業→説明(但し、作業でやるべきこと述べることを中心にしており、極めて短時間)→作業→まとめ

 の場合は、実はごくごく普通の授業と大きな差はありません。でも、これも『学び合い』です。では、どこが分かりやすい違いかと言えば、3)の作業の時間配分です。『学び合い』の場合は、3)の作業が授業時間の過半数(時には90%以上)を占めます。そんな時間を配分できるわけはない、とお思いかもしれませんが、 例えば、理科の実験の授業や体育の球技の授業は作業の時間(即ち、児童・生徒実験の時間、試合の時間)が過半数を占めています。即ち、現状の授業でも、『学び合い』の授業と極めて近い授業をやっている場合は少なくありません。では、なぜ、理科の実験や体育の球技でそのようなことが出来るかと言えば、目標が明確だからです。例えば、理科の実験の場合、「電圧と電流の関係を求めよ」という目標を与え、必要なプリントを与えています。また、体育の場合は「試合に勝て」という目標がそれにあたります。

 もちろん、実験の前に座学の授業があり、試合の前にフリースローやドリブルの基礎指導があります。その時間は教師の説明が多くを占めることになります。しかし、先に述べたように、そのような時間ですら、子どもたちの中にそれを出来る子どもがいると考えると短くできると考えます。

 1)の導入も削減可能と考えています。教師が導入に力を入れるのは、クラスの中にはその教科・単元に興味関心がない子どもが少なくないことを知っているからです。そのため、そのような子どもに興味関心を持ってもらうために、そのような子どもが興味関心を持つような内容と、その教科・単元との関連を説明します。これは、それなりに有効です。

 しかし、どのような説明をしても、興味関心を持たせられない子どもがいることも教師は知っています。そして、「しょうがない」と諦めているのではないでしょうか?教師は教科の内容や話術などの指導法でなんとか興味関心を高めようとしますが、どんな内容であっても、どんな話術であっても全ての子どもを引きつけることは不可能です。では、ホモサピエンスである我々が、最も普遍的に興味関心を持つ対象は何でしょうか?我々は他のホモサピエンスだと考えています。我々は内容や話術に「ひねり」は不要で、他のメンバーと関われることを保証すれば、内容や教師の話術以上に興味関心を高められると考えています。『学び合い』では関わりながら作業をしているので、導入を必要ないと考えています。

 4)の「まとめ」も削減可能だと思っています。この「まとめ」の削減が、実は、多くの教師にとってもっとも抵抗を感じる部分です。この「まとめ」を削ると、「子どもが本当に分かっているか確認できない」、また、「絶対に抑えたいところを確実に伝えたい」と言われます。でも、本当でしょうか?

 「子どもが本当に分かっているか確認できない」とおっしゃいますが、「まとめ」の5分間で何人ぐらいの子どもに答えさせることが出来るでしょうか?その数人の子どもが出来たか出来なかったを確認するために、クラス全員の子どもの「関わる時間」を削減する意味があるでしょうか?毎時間、毎時間、確認しなくても、結局、定期的に行うテストで分かっていないと教師に分かってしまうと子どもが分かれば、毎回、まとめで確認する意味はあまり無いと我々は考えています。むしろ、子どもたちが「分かりたい」と真剣に思えば、教師に確認されなくても、自分自身で確認するのではないでしょうか?

 「絶対に押さえたいところを確実に伝えたい」とおっしゃいます。多くの授業の最後に、絶対に押さえたいところを短い言葉でまとめ、黒板に書いてまとめる姿が見られます。しかし、そのように書くことにどれほどの効果があるのでしょうか?もし、そんなに効果があるならば、授業の最後ではなく、授業の最初に黒板に大書して、「本日は、これを理解することが目標です」と語るべきだと考えるのが我々です。

 以上の様に、『学び合い』では教師がやっていることの多くを削減し、その時間を子どもたちが関われる時間を保証しております。しかし、多くの教師にとっては、上記の説明を読んでも、削減することに抵抗感があると思います。それならば、削減しなくても結構です。先に述べたように、現状の授業と『学び合い』の授業の間には、中間型はいくらでも存在し得ます。教師が不安になれば、その不安は教師の表情や言動ににじみ出てしまいます。そうなれば子どもが不安になります。不安だったら、「まとめ」をしても結構です。

 しかし、考えて欲しいのは、我々は授業あたり数分の語り(いや十数秒の語り)だけの授業を数ヶ月続けていても(いやだからこそ)、先に述べた様々な効果を上げています。教師の時間を削減できないと言うことは、子どもたちが関わり合いながらクラス作りをする時間を削減していることを意味しています。そのような時間を削減するだけの意味があるかを考えて欲しいと願います。どこまで削減できるかは、逆に言えば、教科学習の時間のどれだけ多くの時間をクラス作りに費やせるかは、その人次第なのです。』