■ [嬉しい]地元講演会
本日は地元の上越高田地区の先生方を対象とした講演会に行きました。息子がお世話になっている学校の先生方々、また、将来、お世話になるかもしれない先生方々です。まさに「先生様」です。いつもとは別種の緊張をしました。しかし、何とか語り終えました。
語りたいことが多すぎて、最初の「まくら」の話を省略したので、笑いが少なかった。これは反省。でも、いつも通り、マイク無しで語り続け、時間を守りました。これは、ホッとします。
一人でも多くの先生方の届いてほしいと願います。
■ [大事なこと]啓蒙君主
アフリカを植民地にした人たちは「愚かな現地人を教導する」ということで、現地政府を設けない植民地経営を合理化しました。それを今の時代、どっかの先進国が発展途上国で行ったらどうなるでしょうか?
啓蒙専制君主として名高いフリードリヒ2世の治世下、プロセインは発展しました。では、今、発展途上国にフリードリヒ2世が表れ、同様の治世をしたらどうなるでしょうか?
今の日本で、上記が成功すると予想する人がどれほどいるでしょうか?
本日、昨日の「オッカムの剃刀」のメモに対する同志からのレスで、
>は教師と同じだけ有能であり、愚かである、ことを理解して
>いないと出来ないことです。
この考え方は、私が学び合いにひかれた大きな理由のひとつです。
以前から、先生だって子どもだって人間。ちょっと物知りかどうか以上の違いはないはずだと思っていましたし、それを裏付けるような場面に何度も遭遇してきました。きっと、私は自信を持って、この考え方を他の先生方に主張することでしょう。
しかしながら、この考え方があまねく先生方に受け入れられるのか、と聞かれれば、否と答えることでしょう。実際、先生の方が優れている(はず)とおっしゃる方のほうが多いことでしょう。』
というメールを頂きました。まったく、そう思います。しかし、そう思えない先生に対する義憤(いや怒り)を感じざるを得ません。
私の「子ども」とは「子どもたち」のことです。一人の人間が数十人の子どもより有能だと思うなんて、なんという傲慢なんでしょうか?民主主義の国において、そのような思い上がりをしている人がいるということに、怒りを感じざるを得ません。まるで「愚かな現地人を教導する」と言っている人のようです。
民主社会における教師は、啓蒙専制君主であってはならないと思います。ではどうすべきか、それは市役所の窓口の人の様にあるべきだと思います。即ち、
*法に定められた規定及び、その適用範囲を正確に理解し、それを自らの判断で勝手に拡大解釈・縮小解釈はしない。
*上記を越えて「すべき」と考える場合は、説得することは可能であるが、最終判断は市民にある。
*上記の前提の上で、全体の奉仕者としての使命を全うする。
であると思います。そして、それが出来るためには、どんなに手続きに無知な人がいたとしても、相手は自分と同じように有能であり、愚かな存在であることを理解すべきだと思います。
民主社会においては、「子どもは実際そうか、否か」の次元ではなく、「子どもはそうだ」と考えなければならないと思います。そのような個人の集団である、子どもたちを、そう思えないならば、民主社会において教師の資格はありません。
もちろん、民主社会において「禁治産者」や「懲役」のように権利が剥奪・制限される場合はあります。しかし、その場合は適用に関して、明確な規定が民主的な手続きで定められています。私の知る限り、子どもの権利を規定した法令はありますが、子どもの学習に関する権利を制限した規定を知りません。少なくとも、「先生の話を黙って聞いて、板書をノートに写さなければならない」という規定を知りません。
知っている人います?
それを面白い授業、分かりやすい授業で乗り越えようと言うのは、「パンとサーカス」で民衆を押さえたローマ帝国の末期症状です。決して、民主主義の世界でやるべきことではないと思います。
『学び合い』では、指導要領で定められたことを達成することを、全ての子どもに求めます。しかし、法で定められていないようなこと、例えばどのようにそれを達成するかという方法は規定しません。ただ、一人一人の子ども、そして子ども集団が最善のことが出来る環境を保証するよう努力します。極めて、民主的だと思います。