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2007-12-07

[]判別法 13:19 判別法 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 判別法 - 西川純のメモ 判別法 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 「西川流『学び合い』」という本日のメモに関連して、ある授業が『学び合い』か否かを判別する方法を紹介します。『学び合い』が成立すると集団構成、子どもの動き、視線、言葉など様々な変化が起こります。しかし、それを正しく捉えようとすると、我が研究室がやっているように数十代のICレコーダーで記録し、分析する必要があります。しかし、『学び合い』か否かを判別するだけだったら、極簡単です。

 まず、教師が仕切っている時間です。教師が仕切っている時間というのは、クラスのみんなを黙らせて、自分だけに注目させている時間です。ある時は説明であり、ある時は板書している時間です。それが授業の半分以上を占めていたら、これはそれ以外でどんなに子どもたちを関わらせていたとしても、『学び合い』ではありません。教師の仕切る時間の長さは、自分自身が有能であると考える度合いに比例し、子どもが有能であるという考えに反比例します。まあ15分以上も仕切っていたとしたらイエローゾーンです。

 次に成績です。この成績は何でもいいんです。鳥肌が立つような素晴らしい評価方法であってもいいし、千円以下で買える業者のドリルの問題でもいいんです。ようは、その先生が子どもたちに課した課題に対応していればいいのです。この平均点が驚異的に高いのみならず、最低点が、そのクラスの子どもの実態から考えれば驚異的に高い結果を、数ヶ月にあげ続けているならば、『学び合い』です。平均値は高いが点数にばらつきが大きいのは『学び合い』ではありません。また、点数の乱高下が大きいのも『学び合い』ではありません。

 次に保健室への愁訴率で分かります。本当でしたら不登校率で図るべきなのですが、アスペルガー傾向の子どもに関しては『学び合い』は例外的に時間がかかります。分母が少ない場合、データとしての揺らぎが大きくなります。従って、愁訴率の方が適切です。わかりやすい例ですが、遠足の日に欠席・遅刻する子は少なくなるのと同じ理屈です。(もちろん、私は全ての子どもを救うことを志としています。もちろんアスペルガー傾向の子どももです。ただ、上記に関しては、分かりやすい指標として適切か否かを議論しているのをご了解下さい)

 この三つが同時に、かつ、安定している場合は『学び合い』をしています。それは我々の研究と全く知らなくてもです。『学び合い』の考え方は正しいものです。正しいものは、心ある人は気づくものだと思います。逆に、上記の一つでも欠けていたら、それは『学び合い』ではありません。ちゃんと分析したら、その授業が『学び合い』でないかを学術的に出すことは可能です。ただ、非常に手間はかかりますが。

 ただし、我々の同志が、常に上記を満たしているかと言えば、そんなわけありません。他ならない私自身がそうです。私のクラスである西川研究室に人間関係に歪みが生じたこともあります。達成度が低いときもあります。また、講演会では徹頭徹尾、私が仕切りまくっています。全国の同志の場合も、世のしがらみで苦しんでいる人もいます。

 その時です、その人に聞いてください。「なんで、そうするんですか?」、「なんで、そうなっているんですか?」と聞いてください。もし、「本当は『学び合い』のセオリーに戻るべきなのだが、諸般の事情で・・・」と後ろめたそうに語ったら、それは同志です。しかし、この状態が最善であると言ったり、一斉指導の併用も必要だと言ったりしたら、それは同志ではありません。その様な方は、『学び合い』の初期段階まではいくでしょうが、中期段階、そして最終段階に至ることは、考え方を変えない限り無理です。

 非常に分かりやすい判別法です。

[] 西川流『学び合い08:42  西川流『学び合い』 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク -  西川流『学び合い』 - 西川純のメモ  西川流『学び合い』 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、ネットサーフィンをしたら西川流『学び合い』という言葉に出会いました。ビックリすると同時に、う~んと思いました。その理由を以下に述べます。

 物理学・数学には「流」はあり得ないと思います。量子力学はハイゼルベルクやシュレディンガーによって基礎を固められました。しかし、ハイゼルベルク流量子力学というのはあり得ません。相対性理論は、ほぼアインシュタイン一人によって完成されました。しかし、アインシュタイン流相対性理論という言葉もあり得ません。量子力学にせよ、相対性理論にせよ、個人の中にあるのではなく、個人と関係なくそれはあります。

 宗教、芸事には流派があります。しかし、大抵は個人のエゴが出発点です。有名な例ではヘンリー8世が離婚しようと思ったがキャソリックの教皇が許さなかったためイギリス国教会が独立しました。芸事の流派は、大抵は家元の遺産相続に関わるお家騒動の結果で生まれるようです。結果として、それぞれの流派は、ことさらに違いを持たせますが、素人から見ると、どうでもいいところのように感じます。

 『学び合い』でもっとも大事にしているのは考え方です。子ども観、学校観、授業観です。授業観は子ども観、学校観から引き出される必然ですから、子ども観、学校観の優先順位は高いです。従って、子ども観、学校観に合致するならば、全く学び合わなくてもOKです。ただし、合致するか否かは抽象論・神学論争で決められるべきものではなく、長期にわたるテストの成績・出席率・不登校率・・・の結果によって議論されるものです。その意味で、『学び合い』という言葉を「私」は提案しました。もし、それに合致しないならば、『学び合い』という言葉を使わないでください。すみません。それぐらいの我が儘は、言葉の提案者として許されると思います。

 さて、私が「う~ん」と思ったのは何かといえば、西川流『学び合い』という言葉を使った方は、西川流という形容詞に何を意味させたかったかということです。もし、上記の考え方が西川流であると考えているならば、そうでないものは『学び合い』ではありません。理由は上記に書いた通りです。もし、可視化とか、最初の語り等の方法を意味しているのであれば、あれは西川流ではありません。その多くは西川研究室に所属された院生さん、学生さん、また全国の数多くの同志が発見されたものです。それは、学術論文に明確に示しております。本においても、本文・レファレンスに明確に示しております。従って、個々の方法のレベルであれば、川合流であり、桐生流であり、水落流であり、神崎流であり、そして、百を超える同志の「流」の集積です。決して西川流ではありません。もし、このブログに書いていることのレベルであれば、その記載のほとんどは○月○日の西川ですが、それから数日後の西川と同じわけではありません。このメモでも何度も書いたように、私は過去の自分の愚かさを学ぶことが最大の喜びです。つまり、西川流『学び合い』はあり得ないのです。

 じゃあ、なぜ、そんなことを拘るか?それは西川流『学び合い』という言葉を使えば、別の○○流『学び合い』という言葉が生まれるからです。『学び合い』という言葉をあえて作ったのかと言えば、それは世にある“学び合い”が、子どもを有能として捉えていないと思うからです。それが証拠に、ゴチャゴチャと手だてを教師はしつづけます。また、世にある“学び合い”は、学力向上を主にねらったり、人間関係作りを主にねらったりします。結果として、バランスが悪く、継続性が低いです。残念ながら、犬山の実践も、フィンランドの実践も、それを行政レベルで実現している点では手放しで賞賛できます。しかし、あれは『学び合い』ではありません。

 『学び合い』の子ども観、学校観は、読んでいる限りは普通のことを書いているようですが、それを実際の授業で徹底するには、本当に革命的な考え方の転換が必要です。○○流『学び合い』という言葉が生まれたとしたら、その多くは個人、一つの組織のエゴが背景にあります。そして、子ども観、学校観が不徹底な、既存の“学び合い”の焼き直しになる危険性があります。それは断固避けたいと思います。

 過去にも書いたことですが、何度も書きます。『学び合い』は私個人の中にあるのではなく、私の外にあります。私は家元になるつもりはありません。私は『学び合い』に反する行動をすることが多々あります。そして、それを同志に正されることを喜びとしています。

 ということで西川流『学び合い』は存在し得ません。

追伸 言うまでもないことですが、私が気にしているのは○○流『学び合い』であって、○○流学び合い、ならば、全然気にしません。『学び合い』と学び合いは似て非なるものですから。