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2008-09-08

[]私の講演会を聞いた方へ 17:36 私の講演会を聞いた方へ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 私の講演会を聞いた方へ - 西川純のメモ 私の講演会を聞いた方へ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先ほど、佐賀で講演会を聞いた方からの自由記述のアンケートの一覧が届きました。私は、「西川の馬鹿野郎!」と書いていないかびくびくして読んだのですが、熱意あふれるものでビックリもし、ほっともしました。講演会の企画者より、会議を通じて参観者の学校に伝えるので「ご指導」をいただきたいとのご依頼がありました。以下が、その返答です。これは、私の講演を聴いていただいたすべての方へのメッセージです。

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 『学び合い』で一番の障害は「やる」と一歩進めることです。私はよくバンジージャンプに例えます。バンジージャンプが安全であり、かつ、新鮮な経験を得るであろうことを知っていたとしても、あと一歩、歩みを進めることの難しさは当然のことです。もし、一歩を進められたとしたならば、これから出会う障害の大半を超えています。それを喜びます。

 しかし、『学び合い』は今までの教育の考え方と革命的に違います。HPの手引き書を見ても、本を読んでも、誤読する場合があります。自分の実践が正しいのか、不安になるときがあるでしょう。そんなときは遠慮せずに、私にメールで相談してください。私はちゃんと返信します。あなたがあきらめない限り、サポートし続けます。『学び合い』はとてつもなく簡単です!しかし、あまりにも簡単すぎて信じられず、いらざることをしてしまい失敗することがあるでしょう。その場合は、「これこれのことは不要ですよ。だって・・」とご説明申し上げます。また、不安になったら、「大丈夫。みんなが通る道ですよ。明日の授業で、これこれのところを見てください。きっと、・・・」と勇気づけいたします。私が一人で背負いきれなかった場合は、『学び合い』を実践しているみんなでサポートいたします。

 さて、一歩が踏み切れない方へ

 踏み切れないのは当然かもしれません。不安なのも当然です。大事な子どもたちの教育なのですから、革命的に違う『学び合い』を受け入れるに躊躇するのは「健全」かもしれません。しかし、考えてください。現状のクラスには、2割以上の子どもは授業についてきていません。その子はどのような思いで時間を過ごしているのでしょうか?みんなが出来るのに、自分は分からない状態で過ごす時間は、教師となるような我々でさえ、大学では経験したと思います。その苦痛、不安を思い出してください。2割以上の子どもは、そのような時間を1日に6時間味わっています。そして、その1日の積み上げを、小中高で12年間味わっているのです。恐ろしいことではないでしょうか?そして、クラスの過半数は、そのような同級生がいることを知っているのに、考えないようにしています。恐ろしいことではないでしょうか?

 実は教師も知っているが、考えないようにしています。なぜならば、どうしようもないことだと諦めているからです。たしかに、今までの教育ではどうしようもないことです。しかし、みなさんは、「もしかしたら何とか出来るかもしれない」道を知ってしまった。仮にかすかな可能性であっても、是非、トライしてほしい。そして、実際はかすかな可能性ではなく、確かな可能性と我々は信じています。

 目を背けないでください。目を背けるには、恐ろしすぎます。一人でトライするわけではありません。全国では、多くの先生がトライしようとしています。いっしょにやりましょう!

[]子どもを有能だと思う 15:24 子どもを有能だと思う - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 子どもを有能だと思う - 西川純のメモ 子どもを有能だと思う - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々は子どもたちは有能だと思っています。しかし、「子どもは無能だ」と公言する教師は少ないでしょう。善意の先生方だったら、「子どもは有能だ」と言うでしょう。では、どういうときに、『学び合い』とその他と違いが出るでしょう。

 まず、その「子ども」とは個人をイメージしているか、子ども集団をイメージしているかで分かれます。はっきり言います。その課題に関して、有能な子どももいますが、無能な子どももいます。個人の子どもをイメージして「有能」と言う先生は、次の瞬間に無能な子どもを見ると、「子どもは無能だ」と言い出します。ところが、『学び合い』において子どもとは、子ども「たち」のことを指します。有機的に結びついた子ども「たち」は常に有能です。

 次に、「これこそが教師の仕事だ!」とか「教師にしかできない!」と思いこんでいることをしなくても目的としている課題達成をしている姿を見たときの反応に現れます。

 一斉指導の考え方の場合、「そんなこと出来るはず無い」と考え、出来ない理由を見いだそうと「努力」します。それが見いだせない場合は、「その学級の特殊性」を主張します。それが出来ないと、「自分の学級は出来ない」と自己の特殊性を主張します。結局、認めたくないのです。『学び合い』のライブを見た教師の一部に見られる兆候です。

 これは、我々に当てはめると、面白いですよ。例えば、現在の『学び合い』では、「指導要領を教室に置く」ことはやっています。また、好きなもの同士で集まりたがる傾向を持つ子どもたちに「みんな」を求め続けることは「教師の仕事だ!」と主張しています。もし、指導要領も置かず、「みんな」も求めないのに、トータルな課題達成を安定して実現できるというクラスを見た時の行動です。

 もし、「そんなこと出来るはず無い」と考え、出来ない理由を見いだそうと「努力」し、それが見いだせない場合は、「その学級の特殊性」を主張し、それが出来ないと、「自分の学級は出来ない」と自己の特殊性を主張するとしたら、その人は『学び合い』を実践しているようで、本質的には一斉指導なのだと思います。

 少なくとも、今現在の『学び合い』が一斉指導の人からは信じられないレベルに達しているのは、過去のその時点で「そんなこと出来るはず無い」と思える実践を目指しており、それを目の当たりにしたら、とても素敵だと考えたからです。

 つまり、世の学び合いの中で同志となり得るか、否かの試金石は、我々の実践を見て「本当だったら素敵だ」と考えるか、「アラ」を探そうとするか、です。

[]比較 09:55 比較 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 比較 - 西川純のメモ 比較 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私のブログを読んでいる方ならお気づきだと思いますが、私は基本的に個人特定される対象に対して否定的なことは書かないようにしています。かなり過激なことを書いているようですが、よく調べれば、そこのところは意識的に避けています。理由は、いらざるエネルギー損失を避けるためです。

 が、このメモではあえて書きます。ただし、私の本意は、「『学び合い』とは違う」ということを書きたいのであって、「駄目だ」という訳ではありません。少なくとも、私の考えとは違うということです。このことは、何度も書いていますが、何度も聞かれるので定期的に書かなければなりません。

 『学び合い』は学び合いと銘打っています。世には学び合いの実践は山ほどあります。そのため、その一種だと誤解される場合があります。が、間違われることが侮辱に感じられる場合は少なくありません。理由は、どう考えても「子ども」が学び合っていないからです。例えば、モナリザとそれを素人が模写したものの違いみたいです。まあ、「似ていると言われれば、似ている部分もあるかな?」というレベルです。

 しかし、似ている部分もあるな~と感じるものもあります。そして、敬意を表するに実践もあります。が、それでも「それと同じですか?」と聞かれると、否定的な意味を出さないようにして(でも、表現上、そうなってしまうことを恐れながら)「違います」と説明せざることがあります。そのもっとも多い事例は、○山市の学び合いと、T大のS先生の学び合いです。

 ○山市の学び合いは、市レベルで実践していると言うことに深い敬意を表します。市レベルでやるのは、個人レベルでやるのとは全く違います。凄いと思います。が、『学び合い』とは全く違います。理由は、全国学力テストを拒否した点に端的に表れます。子どもたちが関わり合うことに重点をおいており、関わり合うことによって課題を達成することを学ぶとは違います。別な言い方を言えば、心と学力を分離可能と考えています。『学び合い』は人との関わりによって、その有効性を実感しますが、その有効性を実感するのが学力であって良いのです。いや、現状の法規上、また、保護者・子どものニーズから考えれば、学力であるべきです。この違いは、善意の先生方の学び合いに共通するものです。何か業者テストに端的に表れるものを目指すことが、何か不浄のもののように感じるようです。まるで性やお金を不浄と表では言いつつも、実際はそれにカリカリしている近代の人間のようです。そんなことにカリカリせずに大らかに考えればいいのにな~っと思います。

 S先生の学び合いは、もっと奥が深いと感じます。学び合いを人間の本性ととらえ、それを学校教育で実現しようという方向性を感じることが出来ます。しかし、私が理解出来ないのは、そんな本性が複雑な手を入れないと実現できないと考えている点です。言うまでもなく、現在の学校教育が制度化されたのは200年程度のものです。それ以前に、数百万年の人類の歴史があります。我々は学び合いを原始人の時代からある人間の本性だと考えています。そう考えると、S先生の実践校での学び合いは手を入れすぎている、と感じるのです。一言で言うと、子どもを信じられないのです。そして、ホモサイエンスという種を信じられないようです。(信じてもらえれば、『学び合い』と同じになると思っています)

 一斉指導という現在の学校教育は、いずれも子どもを信じないということが基礎です。その意味で、上記のすべては一斉指導に含まれます。一斉指導による学び合いなのです。私が困るのは、一斉指導に対して学び合いがあり、その学び合いの中に『学び合い』が含まれていると理解されている方が少なくない点です。しかし、一斉指導に対して『学び合い』があり、一斉指導の中に学び合いが含まれているのです。

 子どもが信じられない、ということが正しいならば、一斉指導は正しい。逆に、子ども「たち」は信じられる、ということが正しいならば、『学び合い』は正しい。どちらが正しいかは、結果が明らかにしてくれます。

 繰り返しますが、私の意図は、「『学び合い』とは違う」ということを書きたいのであって、「駄目だ」という訳ではありません。少なくとも、私の考えとは違うということです。子どもが信じられないことが正しいならば、『学び合い』は誤りで、一斉指導が正しいのですから。ただ、私は子どもを信じており、信じるに足る実践・学術を積み上げております。

[]雪の瀬川 09:11 雪の瀬川 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 雪の瀬川 - 西川純のメモ 雪の瀬川 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 最近、ipodに落語を入れて、片道1時間ほどのを歩いています。本日は、柳家さん喬の雪の瀬川です。いい話し手、いい話だった。涙をボロボロ流しながら歩いていました。

 客観的に見れば、不審者ですね。

[]『学び合い』とは何か 06:57 『学び合い』とは何か - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 『学び合い』とは何か - 西川純のメモ 『学び合い』とは何か - 西川純のメモ のブックマークコメント

 改めて書きます。『学び合い』とは「学校は人との関わりを通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の仲間であることを学ぶ場である」という学校観と、「子どもたちは有能である」という子ども観です。あとの全ては、この二つの考えに基づき、引き出されたものです。

 授業方法のレベル、ましてや、その場でどのように対応するかのレベルは、その人の判断はありえます。「○○流」、「○○式」・・・もあり得ます。また、私が講演で語る事例・方法、書籍や手引き書で書いてある事例・方法に違うこと、反することをすることもOKです。しかし、上記二つの考えに反したら、『学び合い』ではありません。

 たとえば、「人の関わりは大事だよな、でもね、受験戦争が・・・」と考え始めたら、そりゃ『学び合い』ではありません。また、「でもね、このあたりは子どもは出来るはず無い、これをするのが教師の仕事だ」と方法レベル(目的レベルではありません)を語り始めたら、『学び合い』ではありません。

 もちろん、人の心は弱いもの、また、現実の「対処療法」はありえます。でも、心のやましさがあるべきです。たとえば、「本当は、ここを子どもに任せるべきだが、とても踏み込めない・・」とか「ここの部分は、自分がやりたいな~」と思うのはありです。私だってあります。ただ、目指すべき方向性は変わりません。

 平成9年から本格的に『学び合い』の研究・実践を続けています。今から考えれば、平成9年頃の実践は、テクニック的であり、子どもを信じていなかった。しかし、その頃から学校観と子ども観は不動でした。だから、毎年、二つの考え方に照らして、改善を続けました。今後も、実践研究を深めるでしょう。そして、現在の実践を「未熟だ」と笑うでしょう。しかし、その方向性は過去も今も未来も不動です。

 『学び合い』は考え方です。状況によってころころ変えられるような方法とは違います。ただし、それは方向性です。それは今、成り立っていなくても良いんです。それを「常」に目指すところが重要です。