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2014-11-10

[]一般性と個性 21:49 一般性と個性 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 一般性と個性 - 西川純のメモ 一般性と個性 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』のセオリーは強力です。国語でも社会でも体育でも・・・どんな教科でも、そこでの子どもと教師の姿は一緒です。小学校でも、中学校でも、高校でも、大学でも一緒です。初任者でも、十年選手も、退職間際の教員でも一緒です。これほどの一般性は外に例が無いと思います。大抵の一般性は、ある学校段階の、ある教科の、ある単元の一般性です。それも、熟達人だったら出来るという一般性です。

 が一つ一つの実践は個性的です。ただし、その個性的な理由は、教科の違いでも、学校段階の違いでも、経験の違いでもありません。人の違いなのです。一人も見捨てないと願い、学校教育で子どもたちの一生の幸せを実現できると信じ、子どもたちは有能であると信じていることは同じなのです。しかし、一人一人の「人」は違います。その違いは子どもに映し出される。それが素敵です。

 ということを同志のブログを読みながら思い出しました。http://manabiai.g.hatena.ne.jp/daitouiruka/20141106

 私は日本全国の同志と会って、話し、飲みます。その際、同じなんだな~っという気持ちと、こんな人が日本にいるんだという発見の喜びを感じています。

[]足して二で割る『学び合い09:09 足して二で割る『学び合い』 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 足して二で割る『学び合い』 - 西川純のメモ 足して二で割る『学び合い』 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 授業時間の半分は『学び合い』で半分は従来指導型ということは基本的にありえません。もちろん、『学び合い』を授業方法ととらえるならばそう思うと思います。つまり、授業の半分は子どもを座らせ、板書をする。そして残りの半分はたち歩き、相談OKとすることは可能です。しかし、それは『学び合い』ではありません。『学び合い』は考え方です。『学び合い』のセオリーはきわめて簡単です。「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決することを学ぶのが学校」という学校観と、「子どもたちは有能である」という子ども観、だけです。

 さて、この考えにたてば、何故、授業の半分は子どもを座らせ、板書をするのでしょうか?理由は「子どもたちは有能だと」考えていないからです。つまり子ども観が腑に落ちていない。そして、そのような行動に走らせるのは、中長期の子どもの成長より、その日の課題が達成することを優先しているからです。つまり学校観が腑に落ちていないからです。つまり、『学び合い』ではないのです。

 さて、腑に落ちていないとどんなことが起こるでしょうか?教師が「子どもたちは有能だ」と考えないと、それは子どもに伝わります。結果として教師に依存的になり、自らの頭を使いません。クラスで問題が起こったとしても、「それを解決するのは先生の仕事」と思うのです。さらに、教師が学校観を理解していなければ、成績上位者は自分の短期の利害で物事を考え始めます。つまり、自分が学ぶことを優先して周りに教えることをしません。教えたとしても、手のかからない子、つまり、一言二言アドバイスしたら「分かった、ありがとう」と言ってくれる子どもにのみ教えます。つまり教室はグチャグチャになってしまいます。

 教師が、子どもたち全員にとって『学び合い』は得だと確信して、子どもたちは有能だと考えられたならば、クラスの成績上位者の行動は変わります。なぜなら教師の意図をくむのが上手く、生徒の意図をくむ子が成績上位者になるからです。成績上位者の子どもの行動が変われば、多くの子どもがまねます。

 『学び合い』は考え方で、その考え方で授業をやるのです。小手先のテクニックではなく、その単元、その単元で変わる教材で授業をやるのではないのです。人で授業をします。

追伸 例外的に二つの場合は、足して二で割る『学び合い』が『学び合い』になります。第一は、管理職等から『学び合い』を禁止されているため行う場合です。この場合は、心の中は学校観と子ども観があります。だから、足して二で割っても『学び合い』になります(多少、テクニックは必要ですが)。もう一つは、自分自身の中にある『学び合い』に対する不安を子どもたちに率直に語った場合です。例えば、「先生はみんなを一人も見捨てたくない。みんなが分かって、みんなが安心できるクラスにしたい。だから、『学び合い』をしたい。しかし、正直不安がある。だから、少しずつやるよ。君らの姿で私に確信を与えてほしい」と言うのです。このように正直に語れば、成績上位者はちゃんと意を読み取ってくれます。それ以外の「足して二で割る『学び合い』」は、どんなに理由付けをしても、全て学校観と子ども観にブレがあることを示します。そして、それが上手く機能するには、ものすごい一斉指導の力量が必要です。なにしろ、子どもの助力なく一人で『学び合い』らしきものを成立させねばならないのですから。