お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

2008-12-30

[]凄く大事なこと 16:08 凄く大事なこと - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 凄く大事なこと - 西川純のメモ 凄く大事なこと - 西川純のメモ のブックマークコメント

 書き終わったメモを読み直し、反省しつつ補足します。

 私が拘るのは『学び合い』という言葉です。それは学校観・子ども観に基づくものです。それに抵触するならば、『学び合い』ではないと言うと思います。しかし、『学び合い』ではないものは違っても当然ですから、とやかく言いません。なお、私の言動が『学び合い』に反することをすると、ゼミ生から直ぐに注意されます。

 同じ『学び合い』に関しては、具体的な評価基準によって議論することを求めると思います。「目がキラキラしていました」では、科学以外の宗教のようになってしまいます。今のところ、私は「業者テストでの最低点」、「保健室への不定愁訴」を提案しています。それ以上の評価基準があれば学びたいと思います。しかし、精密であることを求めます。つまり、人によって結果がコロコロ変わるのでは困ります。次に、関係法規に矛盾しないことは当然です。そして、保護者・子どもに納得する基準であることも当然です。

 『学び合い』と違うものに関しては、意図的に議論を求められない限り、議論を求めません。攻撃したかのような誤解を与えることがあるかも知れませんが、それは、すみません。そんなつもりはありません。もし、そうだったら避けているはずです。おそらく知らなかったのだと思います。特定して攻撃したつもりはありませんので、無視して下さい。(いかにも非『学び合い』的ですが、これは私の性格が非『学び合い』的であるという障害があるからです。すんません)

 評価結果で議論し、それが素晴らしかったら、直ぐにそれを受け入れます。口をぬぐって「俺もそう思っていた」と言いますから。あはははは。『学び合い』の十数年の歴史は、常に、優れた研究・実践によって、過去の自分を笑う過程ですから。

追伸 中高の先生から「業者テストは無いんです」と質問されましたが、ちょいと調べればあることが分かりました。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20071207/1196984537

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080816/1218840543

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080529/1212074149

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080529/1212074150

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20071010/1191998247

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20070811/1186788125

[]説明責任 14:39 説明責任 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 説明責任 - 西川純のメモ 説明責任 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 新規採用者でも『学び合い』を成立させることが出来ることが明らかになったことが今年の成果の一つです。以前の本で「経験5年以下の人は読まないで下さい」と帯に書いた自分を大笑いできます。馬鹿だな~。若い人の場合は、旧来の「あか」に汚れていません。また、後生大事にしたいとおもう今までの成果がありません。そして、少なくとも初期段階の『学び合い』は非常に簡単で、なんらかの蓄積を必要としません。普通の人生を過ごしている人であれば、簡単に実現できます。それ故、若い人はすんなりと『学び合い』に移行できます。しかし、同時に若い人の場合は、二つのことが重要であることが分かりました。これは新しい学校に異動した同志も同じ障害を抱えていると思います。

 第一に、『学び合い』は革命的に今までの教育とは違います。それ故、誤解されてしまう危険性は高いと思います。若い教師がすんなり教師という職になじめるわけありません。これは当たり前のことです。ところが、普通だったら「若い先生だから」と理解されますが、『学び合い』をやっていると「『学び合い』のせいだから」と解釈されてしまいます。これは中堅の先生だって、新しい学校に異動すれば同様でしょう。

 第二は、『学び合い』はそのクラスの「地」がよく見えます。一斉指導では見えない闇が見えます。その結果、『学び合い』をしたから、それが生起したと誤解されます。本当は、それ以前からあったものが見えただけのことなのですが。

 しかし、我々に誤りがないとは言えません。『学び合い』の考え方は正しいとしても、自らの実践が正しいとは限りません。『学び合い』の考え方が正しく、自らの実践で成果を上げていたとしても、独善的では困ります。周りの同僚・管理職、そして保護者に対して「何故分からないのだ」と思う気持ち分かりますが、説明責任は我々の側にあることを自覚しましょう。周りの同僚・管理職、そして保護者は敵ではありません、潜在的な味方です。政治をしなければなりません。

 仏様でさえ、伝えるために嘘を言います(方便といいます)。うまく伝えて下さい。また、いきなりやるのではなく、従来の実践に似せた実践をするというのも手です。同僚・保護者に伝えて下さい。ポイントは、自分が伝えられない人もいる一方、自分でも伝えられる人が必ずいるということは確かです。その伝えられる人に「みんな」を伝えればじわじわと伝わります。そして、集団の2割が確信を持てば、集団を動かすことは出来ます。今は遠い道のりのように思えるかも知れませんが、案外、1年ぐらいで乗り越えられるものです。だって、子どもの『学び合い』と同じです。特に、保護者集団は作りやすいはずです。だって、子どもという同志を通じて伝えることが出来るのですから。

[]情報発信 14:39 情報発信 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 情報発信 - 西川純のメモ 情報発信 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々は正しいもの、正しくないものを決める際、六法全書をひもといて決めません。周りの人がやっていることが正しい、というホモサピエンスが数百万年続けているルールに則って判断しています。『学び合い』のような新たな考え方に拒否感を持つ人がいるというのは、人類の集団としては健全です。保守性は上記のホモサピエンスのルールなのですから。しかし、一方、集団には新規なものにトライするメンバーがいるというのも、ホモサピエンスの基本戦略です。もし、新規なものが正しいならば世代交代の結果として広がります。つまり、保守的なメンバーが多い古い世代は退場し、新規なものを受け入れる新たな世代が割合を上げます。そうやってホモサピエンスは生き残ってきました。が、人類の世代交代は三十年間かかります。こりゃ長い。どうするか?「周りの人」というのは、どの人も同等ではなく、かつ、正確ではない点です。つまり、自分が準拠していない集団が何をしているかは影響を与えませんが、自分が準拠している集団が何をしているかは影響を与えます。つまり、正当な権威(つまり教育委員会、マスコミ等)に認められる活動をすれば、その影響は大きいと言うことです。

 もう一つ、我々は「周りの人」ということを正確に捉えることが出来ません。例えば、アンケート調査をやって正確に何パーセントの人がやっているかで判断しているわけではありません。子どもが「みんな持っているから買って」と言うので、「だれが持っているの?」と聞くと、数人の名前を挙げてストップする減少と同じです。

 考えて下さい。一般の教師が、どれだけ情報発信しているでしょうか?他の教師の研修を深めるために汗をかいているでしょうか?それも同じ学校の同僚のためではなく、見ず知らずの教師の研修を深めるために、時間を費やしリスクを冒しているでしょうか?日本の教師の中でミクシーやブログ等で情報発信している人がどれだけいるでしょうか?自らの教育実践の意味を保護者に説明し、それを組織化している教師はどれだけいるでしょうか?・・・・もちろん、皆無ではありません。日本の教師は有能で善意の方々です。しかし、「みんな」の有効性に気づいている人はそれほど多くはないと思います。自分の勤務校の同僚(つまり、二三十人の同僚)を思い浮かべて下さい。上記のように知り合いを超えた範囲に対して「みんな」を感じ、情報発信している人がどれほどいるでしょうか?1割はいないでしょう。

 つまり、一人が上記の情報発信をすれば、我々は数十人分の動きが出来ます。そうすれば、三十年分の子どもが『学び合い』にふれることが出来るようになります。

[]教材の力 07:58 教材の力 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教材の力 - 西川純のメモ 教材の力 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 何度も書いていますが、あらためて。

 昨日の補足です。従来の教材の蓄積を教師が握っている間は、方法レベルで使い分けは出来ますが、考えのレベルでは無理です。人の考えをコロコロと変えることは、まあ、無理です。従来の教材の蓄積を教師が握っている間は、『学び合い』の方法をどれだけ使っても、それは一斉指導です。それで『学び合い』の初期段階を超えることは無理です。でも、捨てるのが辛いならば、とりあえず一斉指導の考え方でやることは「あり」かもしれません。優秀の人だったら、そのうち気づきます。そうなれば、『学び合い』の考え方で、自分が学んだ教材を利用します。つまり、それを子どもたちに解放し、任せます。それによって、自分を超えた多様な活用を子どもたちから学べば、自分の愚かさを笑えます。

 では、従来の教材の蓄積は無駄なのでしょうか?そんなことはありません。まず、志があるから、教材の蓄積をしたはずです。だから、『学び合い』にも出会えました。その志は大事です。それに、それによって子どものすばらしさを学んでいるはずです。料理長となれば、自分自身で料理を作る必要はなくなります。でも、美味しいか、美味しくないかの判断は求められます。本当に美味しいものを分かるためには、美味しいものを一杯食べた経験が必要です。

 リッカートという人は、さまざまな管理職で求められる職能を調べました。その結果、主任・係長レベルの平社員と同じような仕事をするレベルの管理職は、平社員と同じレベルの能力が求められます。子どもがやっている勉強に関係する能力が必要なのは、そのレベルの管理職であることを意味します。ところが、それ以上の職階になれば、平社員の能力は不必要です。必要なのは、その仕事がどのような意味を持つかを語る能力が必要となります。多くの教師は、どのように勉強するかを語る能力が重要だと思います。ところが、本当に大事なのは「みんな」の意味を、その子どものレベルから、社会のレベルまで多様に説明し、求める能力こそ、教師の本当の職能だと思います。