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2008-12-31

[]ありがとうございます 08:06 ありがとうございます - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ありがとうございます - 西川純のメモ ありがとうございます - 西川純のメモ のブックマークコメント

 皆様のおかげで、私には過ぎた1年を過ごすことが出来ました。本当にありがとうございました。以下のような課題を意識しつつ、新たな年を、より良き年といたしたいと存じます。今後ともよろしくお願いいたします。

 本当にありがとう~!!!!!

[]平成二十年 08:06 平成二十年 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 平成二十年 - 西川純のメモ 平成二十年 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』の会を、新たに大阪と島根と山形と宮城と開くことが出来ました。九州での広がりも順調です。四国にも同志が生まれました。この結果、日本中の全ての地域の人が、日帰り圏内でライブを見ることが可能な体制が整いました。これはとても意味あることだと思います。これを広げたいと思います。その他、今年もあらゆる方面に「種」を蒔かれました。全て、花が咲くとは限りません。しかし、そのうち3割でも平成二十一年に花が咲けば、平成二十二年は今とは全く違った状態になるはずです。

 歴史とは過ぎた後に、何故、そうなったかを説明することは出来ますが、予測は出来ないものです。しかし、大きな方向性はあります。『学び合い』が必然となることを私は疑うことは出来ません。しかし、いつどのような形で展開できるかは予測できません。ただ、多様な同志の、多様な試みの中にそれがあると思います。大事なのは「みんな」なのだと思います。

[]私個人の課題 08:06 私個人の課題 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 私個人の課題 - 西川純のメモ 私個人の課題 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 この1年ほど、二つのことが澱のように心の中にわだかまりたまっていくことを感じます。

 第一は、研究者としての限界です。自分でも不遜なことだとは分かっているのですが、「教育で明らかにすべきことは全て分かった」というクレージーな妄想が私から離れません。これは定期的におこる妄想なのですが、今度のはその思いが離れません。

 分かると言っても全てではなく、明らかにすべきことに限定してです。たとえ話です。コップ一杯の水の分子の動きを記載し、それを全て予測することは複雑すぎて不可能です。しかし、その分子の集合としての動きは熱力学で記載し、予測することは出来ます。おそらく、これから半世紀に起こるであろう教育に関する課題は全て『学び合い』で解決できると思います。つまり、学校教育の目的は何かという教育観と子どもとはどんな存在かという子ども観の二つで解決できると思っています。こんな妄想にとらわれた教育研究者はいなかったと思います。そう考えると恐ろしく感じます。

 ある本に全知全能の神が最後に行き着く課題とは、「自らを抹殺するにはどうするか?」でした。とんでもない妄想に取り憑かれた私の課題は、「『学び合い』の不備は何か?」という、これまた不遜な課題ではないか、という妄想に取り憑かれ始めています。明らかにこれは非生産的です。

 第二の限界です。それは教師としての限界です。大学の政治の結果として、私は上越教育大学の大多数の学生さんに講義をする機会を奪われました。理科コースの教師だったときは、全ての学部学生さんに教える機会がありました。また、学習臨床コースの教師だった時代は、大学院生の半数に教える機会がありました。ところが、理科コースから学習臨床コースに異動し、学習臨床コースから専門職大学院に異動するに従って、その機会を奪われました。その結果として、学生さんが「可愛くない」のです。大学で学生さんの顔を見ても、全くの他人としか感じられません。

 それに比べて、『学び合い』の全国の同志の方が圧倒的に可愛い。久しぶりに会えば、ためらいなく頭をなでなで出来て、それを自然に受け入れる他大学の学生さんがいます。それらの方々は、面と向かっては数回しか合ったことのないレベルです。三十過ぎた同志も可愛い。素直な同志もいれば、やんちゃな同志もいます。前面にたつ同志もいれば、裏方をつとめる同志もいます。年齢も経験も様々です。いや、私より年長の同志もいます。いずれも、勝手ながら可愛いのです。それらの同志に対しては私は教師ではありません。私は目標を強いる立場にはありませんし、また、それに対して責任を負う立場でもありません。感じとすれば、同じ町内の青年団の仲間みたいなもんです。私の立場は、せいぜい、そこでの世話役みたいなもんです。もちろん我がゼミ生は特別可愛い。でも、それは『学び合い』を選んでくれた同志であるからであり、上越教育大学の学生さんであるからというわけではありません。これはこれで良いのかも知れませんが、行き過ぎると不健全です。まあ、部活にばっかり熱を入れている教師みたいなもんです。

 第一の限界を乗り越えるためには、『学び合い』の行き着く先まで、行ってみることなのでしょう。例えば、「校長の研究」が残された研究です。ちょっと前までは、面白い研究ですが実現不可能な研究でした。しかし、これも実現可能な状態になりそうです。そのうち、県レベルの教育行政の『学び合い』研究も視野におけるかも知れません。まあ、それは先の話として、とりあえずは教師集団の研究に手を入れたいと思います。

 第二の限界を乗り越えるためには、とにかく講義の機会を得るよう政治をしたいと思います。不遜ながら、日本全国から大枚のお金をつかってよばれている私が、無料で学内の学生さんに話せないというのは、何とも不合理です。なによりも教師が授業で子どもにふれあうことの喜びを失えば、枯れます。