■ [自戒]年齢
私が二十年以上お仕えしている、敬愛するある先生の姿を久しぶりに見ました。ビックリしたのは、会議で怒っていることが分かるのです。以前は、居並ぶ参加者の中で、私以外には気付かないと確信していました。極めて人徳のある方で、愛嬌のある方です。ですので、怒ってもわかりにくいのです。ところが、今日は、それが分かりやすい形で出ました。でも、どれほど怒っているかは、私ぐらいしか分からないと思います。おそらく、大多数の人は、「あれ?」と思う程度だと思います。あれだけの大人物でもああなるのですから、私などは気をつけねばと思いました。
■ [大事なこと]点数
トンタンさんと私では、どうやら基本的な前提が違うと言うことが分かりました。でも、学校観と子ども観が共有しているのですから、多様な考え方があることは良いことです。まあ、私のように「深い読み」や「科学的概念の形成」等は、『学び合い』の学校観に比べれば「へ」みたいなもんだ、と思っている方は少数派でしょうから。あはははは
さて、手じまいに、まとめます。
私は『学び合い』の初心者にたいして点数を課題として例示します。最初に言いますが、テストの点数なんて、『学び合い』の学校観に比べたら下らないと思います。でも、それを例示するには理由があります。
理由の第一は、それが成り立たないと、保護者や同僚、そして子ども達の理解が得られないからです。自分が考える理想の授業をするためには、その前提としてそれを成り立たせる必要があると考えるからです。
第二は、自らの課題、即ち何を成すべきかを子どもが理解できることが出来やすいからです。これは『学び合い』が充実段階から、発展段階になれば、あまり重要でなくなります。その頃になれば、指導要領を示し、「素晴らしいものを作れ」とか、「感動する作文を書け」というような極めて抽象的な課題を与えるだけでも、実現できます。なぜなら、その頃の子ども集団となれば、子ども集団の中で、指導要領の示す「素晴らしい」、「感動」は何かを徹底的に議論するからです。へたな教師が考えるより素晴らしい課題を子ども達が創り出します。
つまり「テストの点数が低くても素晴らしい授業だからと同僚から認められる方」、「簡単な漢字が間違ったテスト用紙を家庭に持って帰っても、保護者や同僚に理解される方」は点数を課題としなくても良いです。そして、テストの点数が伸びなくても、その他の面での成長で、自らの変化を実感できるような子ども達ならば点数を課題としなくても良いです。
ただし、私は点数を課題として併用することは安全だと思います。たかがテストの点数なのですから、それも求めても問題はありません。子どもは折り合いをつけて時間の割り振りをしますから。『学び合い』は現在の授業とは革命的に違います。だから、素晴らしい授業を見せても、それの意味が分からない人が多いでしょう。テストの点数だって、凄い点数を実現しても、点数主義だと言われるでしょう。本当の説得は、集団の関係の中でなされるのですからしょうがありません。だけど、現在の実践にクレームがつかないように、テストの点数で実績を上げた方が、どう考えても安全だと私は思っています。
さらに、点数を課題として与えず、抽象的な課題を与え続けると起こりえる危険性としては二つ考えられます。
まず、確実に起こるのは、点数の伸びは期待できないということです。それは最低点も平均点もです。当たり前です。教師が課題として求めていないのですから、上がるわけありません。例えば、「深い読み」を狙った授業をしても、知識偏重のテストでそれが伸びるとは限りません。先の前提、「つまり、テストの点数が低くても、簡単な漢字が間違ったテストを家庭に持って帰っても、保護者や同僚に理解される方は点数を課題としなくても良いです。そして、テストの点数が伸びなくても、その他の面での成長で、自らの変化を実感できるような子ども達ならば点数を課題としなくても良いです。」という前提を想定できる人がそれ程多いとは私は思えません。
次に、テストというようなシビアな基準を与えないと、教師の評価が甘くなり、それ以上に子どもの評価が甘くなります。つまり、「素晴らし学びを実現している」ふりは出来ますが、「点数を上げる」ふりは出来ないからです。結果として、子どもが「素晴らし学びを実現している」ふりをするような非生産的なことを示す。
そのようなふりをしない場合でも、会話の質が低下します。具体的に安易な合意ケースの会話が多かったり、意見の積み上げが低下したりします(太田・西川 2001、古田・西川 2001)。この過程は学術論文に詳しく書いていますが、わかりやすい例で示します。
例えば、新しい校長が「素晴らしい学校を創りましょう」という課題を与えたとします。その学校には「受験の成果を上げよう(NRTの点数を上げよう)」という先生と、「深い読みが出来る子どもを育てよう」という先生と、「不登校を0にしよう」という先生がいたとします。ありがちでしょ?さて、それぞれの先生集団には論客がいたとします。どうなると思いますか?おそらく、何度も職員会議で議論するでしょう。でも、結論を出せないでしょう。その議論によって職員関係がギスギスしたと感じる先生が大多数ですよね。そうなると、落としどころとして安易な合意ケースの会話をし始め、そして「それぞれが、それぞれのことをしましょうね」という風になります。あれと同じことが子ども達の中で起こるのです。なお、議論がまとまらないときに、校長が意見を言ってまとめたら、「後出しじゃんけん」ですよね。そうすると、議論をして潰された職員は納得できないでしょう。おそらく、「そんなことを言い出すならば、最初に言えばいいのに」ということです。第一に、後でそれを言うのに、「素晴らしい学校を創りましょう」を言ったとしたら、校長は最初は何も考えていなかった、つまり、手を抜いていたということです。
このようなことにならないためには、集団の議論の質を絶えず評価していなければなりません。ところが、人間は易きに流れるものです。「うちのクラスは素晴らしいクラスだ」と思うと、評価が弱くなります。しょうがありません、現状の先生方はとても忙しいですから。そして、評価が弱くなると、子どもが手を抜き始めます。まず、現れるのは、学び合ったふりをしはじめます。集団は流動化していたとしても、機械的に相手を変えているだけなのかもしれません。あっという間に集団が腐ります。ところが、テストの点数は非常に分かりやすい指標です。特に、最低点です(平均値ではありません)。テストの点数は下らないですけど、非常に便利な道具です。
ただし、便利ですが危険性があります。それはテストの点数を手段と考えず、目的だと考えてしまうことによって生じます。つまり、なんのためにテストの点数を課題としているかを忘れてしまうのです。
それが端的に表れるのは、最低点へのこだわりが無くなることに現れます。平均値はクラスの大多数が自分の点数を上げようとすることによって、実現することが出来ます。子の場合は、関わり合うことは必須ではありません。特に、つきあいたくない人と関わらなくても実現できます。ところが最低点は、「みんな」が成り立たない限り、絶対にあがりません。平均点が上がったことに安心してしまうと、クラスが腐ります。テストの点は、最低点こそが便利な道具なのです。平均値ではありません。
また、クラスの中に能力的に著しく低い子どもがいた場合、おそらくクラス全員80点以上という課題はかなり難しい課題だと思います。何度も、何度も、クラスのみんなが懸命になっても実現できない「かも」しれません。その時です。テストの点数が目的だと、クラスがだんだん暗くなります。教師もです。でも、テストの点数が80点なんてクソみたいなもんです。付け加えれば、「深い読み」や「科学的概念の形成」すらもどうでも良いことです。重要なのは、大人になるということは何かです。そこのところをちゃんと子どもに語ることが出来れば、それを乗り越えることが出来ます。
追伸 何度も同じようなことを書きました。今後も書くんだろうな~。
追伸 もちろん、トンタンさんのように実践して、出来る人を禁止するつもりはありません。出来るならば、やればいいのです。
■ [お誘い]大学院
私が何故、「全員、点数80点以上」という下らなくて、シンプルな課題に対して迷いがないか?そりゃ、西川ゼミではその課題における子ども達の会話を徹底的に聞いているからです。
クラス全員の会話を、数ヶ月分を聞くと分かります。教師がゴチャゴチャ言わなくても、課題に凝らなくても、子ども達が豊かな学びにすることを。単純な文法、漢字の書き取りでさえ、豊かな課題にしてしまいます。これは、大学院で2年間どっぷりとしなければ、38年間教師をやっても経験できないことです。
お誘いします。
■ [大事なこと]議論5
ここまで議論できると小気味良い。
『>基礎的な文法や漢字の書き取りの点数の部分は高かろうと低かろうと重要ではないと「小学校教師」は思っているとトンタンさんは思われている。私は、そうは思っていません。
私はそう思ってはいません。読み取りの「学び合い」の授業は、テストにほぼ反映されていないということです。「時数的に大きな時間をかけているにも関わらず」ということです。』
すみません、論点がずれています。
元々の出発点は
『小学校の先生ならば分かるように、授業をしてもしなくても国語のテストの点数は「ほぼ変わりません」それを目標にすべきでしょうか?』という主張です。この文章を読む限りは、トンタンさんの上記で書いていることのようには理解は出来ません。
整理すれば、『基礎的な文法や漢字の書き取りの点数の部分は高かろうと低かろうと重要ではないと「小学校教師」は思っていない』ということに同意されるのですね?そして、以前書かれたように、基礎的文法や書き取りなどの部分は授業によって違うと言うことで良いですね?そして、その部分がテストの大きな部分を占めていると言うことはいいですね?
ということは、『小学校の先生ならば分かるように、授業をしてもしなくても国語のテストの点数は「ほぼ変わりません」それを目標にすべきでしょうか?』という主張を取り下げると言うことですね?
違う場合は、上記の文章のどこが違うかを指定して下さい。なお、ケースバイケースという説明もなさらないで下さいね。トンタンさんの最初の主張は、一般的な言明なのですから。
『>そして、以上のうち最初の二つはどうでもいいことです。本当に大事なことは考え方のレベルのことだと、私は思っています。点数を課題にするかしないかなどは、どうでもいいことだと私は思っています。
私も最初からそう思っています。点数を課題にするかどうかなんてどうでもいいことで、それをあえて言う必要なんてないという考えです。』
これも論点がずれています。
該当部分の文章の主なる趣旨は「本当に大事なことは考え方のレベルのことだ」ということです。
「子どもが判断する必要はないとトンタンさんは思っている。私は、そう思っていない。」
ということに私はビックリしているのです。
なお、元々の「何故」の趣旨は、点数で評価すべきだというわけではありません。私は、最初に、「課題設定が難しいという人には、点数で課題を設定しても良いですよ、と言うと、『学び合い』は点数主義と言う人がいます。」と書いています。難しいならばという限定をつけています。
学校でやる場合は、点数というものが分かりやすいことを後に書いています。そして、上記で書いたように、それはトンタンさんも認めたと思います。つまり、『基礎的な文法や漢字の書き取りの点数の部分は高かろうと低かろうと重要ではないと「小学校教師」は思っていない』の部分を認めるのですね?という部分です。
元々の「何故」の主張は、評価が甘いと手続き文化になるという部分です。残念ながら、トンタンさんは評価基準を明確にする必要性を感じられていないようですね。