■ [大事なこと]判別

ネットサーフィンをしていたら、私は『学び合い』とは認めないが、とうような趣旨が書かれていました。ニコニコしてしまいます。私はそんな人ではないですよ。あははは
どうも、スタイルに注目しているようです。でも、私は教師の発言が5分以下とか、たち歩きをしているか・・で判断しているわけではありません。『学び合い』の考え方で判断しています。『学び合い』の考え方を推し進めると、「教師の発言が5分以下とか、たち歩きをしているか・・」になる可能性が高いですが、必ずしもそうとは限りません。「教師の発言が5分以下とか、たち歩きをしている」が、『学び合い』ではないな・・・と私が感じる授業もあります。従来の授業に極めて近く、これが『学び合い』?と言う人もいても、『学び合い』だな~っと感じる授業もあります。まあ、いくらでも分析的に記載して、その判別法を言えますが、そんなことより、感じます。
ま、最も確かな方法は、「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」と考えた場合、この授業をどのように考えられているのですか?と質問して、何を言うかで分かります。上記はさておいても、教科の●●を教えなければ、と言い始めれば、違うな~っと感じます。もちろん、教科の●●の価値を否定するわけではありません。ただ、上記の学校観が教科の●●を学ぶことと矛盾すると考えるところが違うな~と思うのです。そういう考えをするということは、学校観として捉えているのではなく、有効で効率の良い授業法と捉えているからです。『学び合い』の学校観はホモサピエンスはどんな存在であるかという考え方です。
また、「子どもたちは有能である」という考えから言って、本日の先生の手だては何故必要だったんでしょう(もしくは、何故、子どもたちに任せなかったんでしょう)?と聞いたとき、子どもの能力の限界を云々したら、違うな~っと思います。一方、「自分の願いが不十分でだめなんです」とか「管理職の命令で・・」とかだったら、『学び合い』だと私は思います。まあ、「こんなことは子どもは駄目だ」と思うのは残念ですが、それを乗り越えて子どもに任せられる実践者はいます。任せられる教師と、任せられない教師のいずれが優れているか、論を待ちません。
世の中には、『学び合い』をストレートに実践できない人もいます。特に、新任教員やお堅い管理職の学校ではそうでしょうね。でも、そんな人でも出来る、従来の授業と見まがう『学び合い』は比較的簡単に実現可能です。というのは、従来の授業の人は、スタイルを見て、願いを重視しません。ところがスタイルは、いくらでも「ふり」は出来ますから。
ま、結局、私がどう思うなんて、ちっぽけなことです。
■ [大事なこと]テストの点

テストの点はどうでもいいと思う教師がいても良いと思います。ただし、子ども、保護者、管理職を「テストの点数なんてどうでも良い」と説得する説明責任があります。これはかなり困難だと思います。仮に、それが出来たとしても、テストの点数に拘る意味があります。それが馬鹿馬鹿しいと分かっていても。それは、テストの点数、特に、最低点はクラスの有り様を端的に分かる指標として、もの凄く優れていると考えるからです。
学び合っているふりはいくらでもできます。特に、安心してしまうと。そうなって欲しいと思うように、物事を都合良く認知するように人間の頭はなっています。私もそうです。そして、何度も失敗します。でも、テストの点数はふりは出来ません。だから、テストの点数はどうでもいいことは分かっていても、私はそれに拘ります。
昨日のメモに続いて、悩んでいる、ある同志へのメッセージです。