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2010-05-21

[]習熟度別 14:01 習熟度別 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 習熟度別 - 西川純のメモ 習熟度別 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』コミュニティー話しているように、かなり省略して習熟度別学習を否定する発言をツイッターでしたところ反響がありました。ちゃんと説明する必要があると思いましたが、これは140文字単位では書きにくいのでここで書いてリンクすることとしました。

 まず、「先生の話では、勉強が出来ない子が、いじめられ側だという想定なんでしょうか?それとも、勉強の出来ない子 が、できる子をいじめるという想定なんでしょうか?個人的に、勉強ができる子が、肩身の狭い思いをしているケースばかり見てきたので、不思議な気持ちで読んでいました。」や、「イジメって頭の良さ、悪さで生まれてくるものなのかな。」という質問がありました。

 これは、ご指摘の通り、それほど単純ではありません。ただ、学校が序列をつける場合、勉強の出来不出来が一番あるケースなので例示したものです。そして、教師が「成績が良い」ことに価値付けをすることによって、「成績が良い」子が相対的に優位に立つので、虐める側に立つ場合は多いと思います。しかし、学年が上がるにつれて、そのような阻害を受けた子が、身を守る術として虐める側に立つケースが生まれます。いずれにせよ、本意として書きたいのは、成績で序列化させれば、その序列の中で対立が起こる可能性が高いということです。

 そして、以下の3つのご指摘は、その現状を指摘しているものだと思います。

「勉強の不得意な子は得意な子にとって邪魔というのは単なる事実じゃ。」

「習熟度の差がある子を一緒にすることのほうが「いじめ」を固定化することも?」

「学力が全く違う子どもたちを一緒に勉強させるほうが、いじめはでる。違うところでやっていれば、その力別の カーストができて、両者の交流はほとんど無いのでいじめにまで行かない。あまりにも別な人々になるから。」

 これは事実ですが、これでいいのでしょうか?以前、習熟度別学習の効果を書いている文章の中で、習熟度別にすると勉強の不得意な子が「分からない」と言いやすくなる。と書かれていました。そうかも知れない、と思う反面、悲しくなります。だって、何故、自分と違って得意な子がいる集団の中で「分からない」と言えるようなクラスを創らないのでしょうか?そして、その中で「分からない」と言える子どもを育てようとしないのでしょうか?

 子どもはやがて大人になり、社会に出ます。社会では習熟度別ではありません。社会では色々な能力の人がいます。その中で生きなければなりません。自分が出来るかといって、出来ない人に高圧的になる人が社会でいきられるでしょうか?自分が出来ないからといって卑屈になる人が社会でいきられるでしょうか?本当は、出来る、出来ないを理解した上で対等に、折り合いをつけた関わりを持てる人が社会でいきられる人です。であれば、それを何時学ぶべきなのでしょうか?私は教師が事の是非をしっかりと管理した中で、学校という場で学ぶべきだと思います。そのためには、多様な能力を持った人の集団の中で、対等に、折り合いをつけた関わりを持つことを求め、評価することが大事だと思います。

 次に、「大学での単位制の授業では学年が異なってもいじめは起きないわけで、習熟度別に指導することと「いじめ」と は直結しないのでは? いじめが生じるとしたら習熟度別指導を集団内の序列を固定化する別のしくみがあるせいではないか?」とのご指摘です。大学の単位制でイジメが起きない理由は、2つ思いつきます。

 ご指摘の通り、単位ごとに集団が多様であるので、集団が固定化されていないためだと思います。少なくとも、小中高のクラスに対応する集団は無いですね。しかし、一方、部活においては小中高より比重が高くなるため、部活での人間関係のいざこざで引きこもりになる学生は多いように思います。

 第二に、小中高に比べて日本の大学の成績は大ざっぱということがあるでしょう。そして、大学教師が大学の成績をそれほど重視してはおらず、むしろ卒業研究のような専門研究における能力によって評価していますから。そして、それぞれの専門は全く別ですから比較できません。動物生理学の研究能力と日本文学の研究能力は比較できませんから。いや、生物物理学の研究の能力とも比較できないですから。

 つまり、固定的な集団がないので、イジメが重篤化する前にその集団を逃げられる。そして、序列を与えてないので対立関係が生じにくいですから。

 次に、「 武道だと、段級という習熟度に応じた区分けがあります。出来る出来な いが重要ですので、段階にあった教え方をしますね。」と、「失礼ですが、それは西川先生も「勉強ができない=悪」と思っていらっしゃるからイジメに見えるのでは。保護者から見れば、こんなにきめ細かく効率よく子供の学力を上げてもらえるのはありがたい。」とのご指摘です。

 このご指摘は習熟度別が有効な指導法だというご指摘です。確かに、現状の一人の教師が数十人の子どもに教えるという学習環境の中ではうなずけるものですが、残念ながら、その程度のメリットが上記に上げたデメリットを補うことが出来るとは私は思っていません。

 さらに、一般の方が思うほど、習熟度別(少人数)の有効ではありません。調べれば分かることですが、習熟度別で成績が上がったと明確に示しているデータは殆どありません。あったとしても、研究指定校に選ばれ何とか成果を上げなければと思っている教師が発するオーラによる影響(一般にはピグマリオン効果とかハロー効果)で説明できる以上の結果を出している調査を知りません。まああったとしても、現在、日本中の多くの地方自治体で膨大な予算を使って実施している学校に比べて、それを合理化するほどの成果は上がっていないことは断言できます。

 考えてみて下さい、少人数にすれば細やかな指導が出来、成績が上がるのであれば、僻地校はそうなっています。中には、子ども一人に、教員3人という学校もあるのです。で、その学校の子どもの成績が驚異的に上がったという事実を聞いたことはありません。あるでしょうか?

 一発の説明で「あ!分かった」と思った経験、自分の小中高でどれだけありましたか?実際は、何度も質問、その応え、質問、その応え・・・を積み上げることによって、教えてもらう側は自分が何が分からないかを分かり、教える側は相手が何が分からないかを分かるものですよね。第一に、自分が何が分からないかが分かるのは、相当分かる子だと思います。大抵は、何が何だか分からない。何が言いたいかと言えば、理解には対話が必要だということです。我々が調査した結果によると、1時間の学習当たり、6~7分間の対話が必要であるというデータがあります。

 さて、現状の授業はどのような形式でしょうか?例えば、小学校の算数で調査した結果、45分間の授業の中で約40分間は教師が板書し、説明している教師が多かったです。子どもと対話する時間はせいぜい5分間です。では、その5分間を30人で割ったら10秒です。そんな時間で分かるでしょうか?習熟度別で15人学級にすることによって20秒にすれば大幅に改善できるでしょうか?

 さらに、分かるためには、何が必要でしょうか?それは、分からないっと思った瞬間に、適切な情報が与えられることにつきます。例えば、理科の実験の時、授業の最初に実験の中で起こる注意すべきことを教師が説明します。でも、あれをまともに最後まで聞いていて理解している子どもはどれだけいるでしょうか?それが証拠に、その場面になったときに、教師や周りの子どもに聞く子が多いですよね。

 つまり、本当に分からせるためには、全ての子どもに6~7分間の対話の時間を確保し、それも、それは各人が分からないっと思った時間でなければならないのです。

 最後に、多くの方が誤解されていることの一つに、よく知っている人が一番教え方がうまいという誤解です。これは心理学的には誤りです。本当は教え手と学び手の認知的ギャップが適切なとき本当に分かるのです。考えて見てください。物理の問題が分からないとき、それをノーベル賞学者に教えてもらって分かりやすいと思いますか。あははは。そんな人より、ついさっきまで「分からん!わからん!」と言っていたが、「あ、そうか!」と分かった子の方が分かりやすい教え方をするとは思いませんか?

 即ち、学習を成立させるためには、自分が分からないとき、自分が分かる説明をしてくれて、それが分かるまで対話できることが分かるためには必要なんです。小学生でも分かる計算で、一人の教師では無理で、3、4人のティームティーチングでも無理です。さらに言えば、大学まで行った教師が100人集まっても理解できない子どもがいるのです。それを解決するためには、クラス全員がクラス全員の教師になり、かつ、児童・生徒とならなければなりません。そのために、教師が多様な人間と折り合いをつけて学ぶことの意味を教えるのです(右という漢字の書き順を教える代わりに)。それを実現するのが『学び合い』という学習です。

 と、十分に長い説明なのでここで止めます。『学び合い』自体の内容や、その背景となっている学術業績、全国での実践例を知りたい方は私のHPをご覧下さい。

 以上をまとめると、習熟度別ではたいして成績は伸びません。多少伸びたとしても、それによって生じるデメリットを補償するほどではないということです。

[]イジメ 09:58 イジメ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - イジメ - 西川純のメモ イジメ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今年は学部1年生の担任。学部1年生は指定図書があり、それを読まねばならない。今週の水曜日は、それの感想を議論すると大学のカリキュラムで定められた日だった。彼らが「イジメ」に関する本を読んだ感想を意見交換した後、「何が分かった?」と聞いたら、様々な応えがあった。でも、それらは全部、イジメが起こってからの対応法だった。そこで、「君たちはイジメの原因は何だと思う?一番の原因を一つあげるとしたら。」と聞いた、先ほどのは「虐めた側を責めない」とか、「虐められる側の意見を聞く」とか言っていたが、彼らの意見は「虐める子」、「虐められる子」という応えばかりだった。そこで、「そんな気持ちで子どもに接したらどうなる?例えば、虐める子が原因だと思って、虐めること話したら、その本心はばれない?逆に、虐められる子が原因だと思って、虐められること話したら、その本心はばれない?ばれたとしたら、あなた方の話を納得すると思う?」と聞くと黙りました。その後、本当に「虐める子が原因」、「虐められる子が原因」と思ってもしようがない事例を紹介しました。例えば、アスペ傾向で相手の気持ちを察するのが弱い子どもの事例、また、家庭の事情で1ヶ月以上風呂に入らず本当に臭い子の事例などです。そして、「発達障害の子にそれを直せと言って直せると思う?その子の家庭の親にあって、風呂に入れろと言って変わると思う?」と聞きました。結局、教師の出来ることは限られているのです。ですが、一つは変えることは出来ます。それは自分です。だから、教師は原因は自分にあるのではないかと思うべきであることを説明しました。

 その後、『学び合い』の考え方から、従来の授業では、どんな名人教師の授業においても子ども達を分断しイジメを生じることを説明しました。また、多くの教師が何のために学校に行くかを理解していないため、漢字の書き取りや駆けっこで序列を生み出していることを説明しました。

 が、難しいですね。だって、現職の人だって分からないのですから。イジメをなくすには指導法やテクニックでは無理です。イジメの原因は何かという理解だと思います。それが分かれば、テクニックが無くても巧まずして解決できる。少なくとも、それが分かっておらず、心の中で「虐める子が原因」、「虐められる子が原因」と思っている人がどんなテクニックを繰り出しても無意味であることは確か。