お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

2012-05-01

[]一流 22:32 一流 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 一流 - 西川純のメモ 一流 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先のメモの補足です。以前のメモに書いたことですが・・・

 私は理学部出身です。私の同級生は理学部の博士課程に進みそれを極めています。しかし、私はその道ではなく教育の世界に足を踏み込みました。そして、高校教師になりました。高校教師の自主的なサークルに参加して、先輩教師の話題を聞きました。凄いな~っと思う反面、変だな~っと思ったのです。

 というのは、先輩教師の議論の内容は理学に所属した時の研究室の話題と全く同じなのです。それも、かなり古い話題です。最先端の研究にふれてきた私としては、「そんな博物学的な蘊蓄は数十年昔だな~」と感じました。そのような話題を戦わしている先輩教師が私の未来像とは思えませんでした。それが未来像だったら、教師を辞めて理学部の博士課程に進学するべきです。

 教師には教師特有の職能があると思います。それは理科教師であれば、理学部の最先端の研究者は理解できないものであるべきです。また、それは所ジョージや明石家さんまのような億をかせぐ一流芸人も出来ないものであるべきです。

 教師の職能とは何か、私はずっと追い求めています。

 それは目の前にいる子ども、そしてそれ以外の子どもの「全員」の生涯にわたっての幸せを願い続ける能力です。そしてそれを実現する理論であり、それに裏打ちされた実践です。「全員」ではなく、二三人はしょうがないならば、ごく普通の善人でも出来ます。しかし、本当に「全員」を願い続けるには、そうとうな覚悟がひつようです。それはスーパーマンの能力は必要はありません。だれもがすべきと思っていることを、常にやり続ける覚悟です。誰でも出来ます。でも、大変です。でも、それが自分にとっても「得」なのです。

「大事なこと]理論 22:33 「大事なこと]理論 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 「大事なこと]理論 - 西川純のメモ 「大事なこと]理論 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』は考え方で方法ではないといいます。ここで言う考え方とは理論のことです。

 本日、ゼミ生から「何故、多くの教師は考え方を理解せず方法に走るのでしょうか?」と聞かれました。そこで以下のように答えました。

 『理論を理解しようとするのは人の本性ではないんだよ。だって、それが本性だったら17世紀になるまで近代自然科学が成立しなかったのは理屈に合わない。人間はもともと手を抜きたいと思うのは本性だよ。何もしなくて済むなら何もしない。何も考えなければいいなら何も考えない。例えば、私が起きてやることはカーテンを開けて、タンスからズボン下と靴下を出して、着て・・・・だよ。でも、朝起きた時、「カーテンを開けて、タンスからズボン下と靴下を出して、着て・・・」という一連の動作を意識してはいないよ。朝起きると、閉まっているカーテンが目に入る。そうするとカーテンを開く。振り返るとタンスのある部屋が見える。タンスに近づくと4段目の引き出しを引く。引けば、ズボン下と靴下が見える。それを取り出して、ソファーに座り履く・・・・。つまり、一連の動作ではなく、あることの次にあることをするという断片的な動作の記憶が、次々に思い出し、やっていくことなんだ。これって多くの教師が授業でやっていることと同じ。例えば、とりあえず本読みをする。次に新出漢字の確認をする。次に段落分けをする。次に段落の要約を作る。ということをやっている人も、自分が本読み、新出漢字の確認、段落分け、段落の要約・・・・という一連のパターンを意識して授業しているわけではない。あることの次にあることをするという断片的な動作の連続をしているだけ。では、その一連を意識するのは何故か、それはそれで問題が起こった時に、意識化する。それが本屋に並ぶノウハウ本の殆どを占めているものだ。それが方法。だから、何故多くの教師は方法に走るのかという質問は誤りで、多くの教師は方法も意識しない。だから、意識していないから、意識しようとして本を読みながら方法を学ぶんだよ。だから理論を意識しないのは当然。理論を意識するのは、方法では問題が起こるから意識するんだ。方法は、ある場面に適用できるが、別な場面では自らが生み出さねばならない。そのためには方法を生み出すための上位が必要になる。それが理論だよ。でも、世の多くの教師は自分の方法に子どもを当てはめようとする。そして当てはめられると思っている。だから方法のレベルで満足してします。でも『学び合い』は子どもは一人一人違った方法を生み出すべきだと考える。だから、その子どもたちのレベルを超えたモノを必要とする。それが理論であり、考え方だよ。』と説明しました。

 『学び合い』の手ほどき段階では、「教科書●ページから●ページまでの問題を全員が解ける」という課題を与えます。これは集団の2割がその解答を知っていることを前提としています。そして、そのレベルで指導要領のレベルはクリアーしますし、そして業者テストのレベルもクリアーできます。しかし、『学び合い』にはその先があります。それはクラス全員が分からないレベルのこと、それでいながら指導要領レベルのことに矛盾しない高見に至るモノです。

 先の学生の質問はそのレベルのモノです。私が応えたものは、アフォーダンス理論や認心理学のエキスパートノービス研究等の内容に関わるものです。我がゼミ生は、そのレベルのことを疑問に思うレベルに達したのです。このレベルに達した時、教師はその先を行かねばなりません。そして、彼らが進む時に必要だと思われる知見の「種」をふんだんに与えなければなりません。彼らが普段の課題としているモノより遙か先を学んでなければならないのです。

 不遜ながら言います。私はそれが出来るから、ゼミ生は常に学会の最先端に位置できるのです。数学者の旬は20代から30代までです。だからフィールズ賞は40歳が年齢制限になっています。しかし、良い問題は何かは臈長けた年長者の出番です。

 さて、このように教師の職能を考えた時、多くの教師の考える教師の職能は私にとっては職能に思えないのです。

 話術。三遊亭圓生、古今亭志ん生レベルまで行くならば職能でしょう。しかし、そこらの二流芸人レベルの話術は教師の職能ではありません。教材の読み。それで学術論文として学会誌に出せるレベルまでに達せられるならば教師の職能でしょう。しかし、教師用指導書や教師用図書レベルならば教師の職能ではありません。そんなレベルだったら、それを越える能力を子どもが持っていることを私は知っています。

 塾・予備校でバリバリやっている子どもが出来ない、それでいてその学年での課題に「直接」関係し、それが年間をとおして関係する知識・技能とは何でしょう。私は、それが『学び合い』の理論だと思っています。