■ [大事なこと]学ぶ意味
大学院に入ってから十数年間、学校で学ぶ意味を模索した。多くの本を読んだが、子供の現実を思えば空理空論にしか見えない。そして、そんなの考えるのは無駄だと思い、分かるわけないと思った。でも、今は分かる。分かれば、どうすればいいかも分かる。理論とはそういうものであらねばならない。
今教えていることが、一生涯の幸せにつながると語れる教師がどれだけいるだろうか。でも、それを語れれば、ごく普通の教師が、カリスマ教師以上のパワーを持つ。
■ [大事なこと]職能形成
以前、教師の職能形成の発達を研究しました。その結果、最初は教材に関する知識・技能を職能だと考える段階です。次は指導法に関する知識・技能を職能だと考える段階です。次は学習者を理解する知識・技能を職能だと考える段階です。多くの場合、前段階の職能を包含して発達するので、「教材」→「教材+指導法」→「教材+指導法+学習者理解」と発達します。ただし、人によっては「教材」で止まり、それで教員キャリアーを終える人もいます。もちろん「教材」で止まるからダメというわけではありません。教材の知識・技能を極める人もいます。ここまでは『学び合い』を分かる前の段階での研究です。
『学び合い』を分かると、それ以降の段階があることが分かりました。というか、「学習者理解」には個人を理解する知識・技能と、集団を理解する知識・技能とに分かれるのです。さらに言えば集団を理解する知識・技能にも4~6人程度のグループを理解する知識・技能と数十人、数百人のグループを理解する知識・技能とに分かれます。この最終段階の知識技能は郡市レベルでも数人程度ぐらいしか持っていない職能です。
例えば、授業検討会で「○○さんはこういうことをやっていた」と発言し、その意味を語れる人がいます。これは個人を理解する知識・技能のある人です。「○○さん達のグループでは、・・・・・・・」と発言し、その意味が語れる人がいます。これはグループを理解する知識・技能がある人です。そして、「○○さん達のグループでは・・・・・・、そして○○さんがそれを見ていて、それを自分たちのグループに伝えて・・・・・」と語り、教室の対角線の位置にあるグループ間の関わりを語れる人がいます。これが集団を見取る知識・技能のある人です。思い出して下さい。このレベルのことを授業検討会で語れる人がどれほどいるでしょうか、郡市レベルでも数人程度ぐらいというのもうなずけるでしょう。そして、その人は、その郡市では授業名人として一目も二目も置かれる人だと思います。
私は研究授業の時、子どもより教師を見ています。それを見れば、それぞれの教師がどのレベルの教師なのかが分かります。
教材や指導法のレベルの教師の場合、授業中はずっと教師を見ています。学習者理解の教師は子どもをよく見ています。そして、個人レベルの理解の人は特定の子どもにべったりくっつきます。ところが集団レベルの教師の場合は教室全体を見ます。そして、ポイントとなる兆候が見られたとき、すっとそこに近づき、そして教室全体を俯瞰する位置に戻ります。ね、種明かしすれば、凄く簡単なことでしょ。
異学年『学び合い』では数百人の子どもが素晴らしい行動をしまくります。私は感激で涙を流したり、ほほえましい言動に笑ったりします。これを見せれば異学年『学び合い』がすくに分かるはずだと思い込んでしまいます。しかし、考えてみれば、集団を見取る能力の無い人には意味不明な状況なのだと思います。特に教材や指導法レベルの人にとっては教師は何もやっていないとしか見えないのですから、「日本を崩壊させる」と思うのでしょう。
教師の職能の最終段階を初任でも分かりやすく整理・精選したノウハウが『学び合い』があります。先に述べたように、教師の職能段階を見取るにはどうしたら良いか、種明かしすれば簡単なことですよね。それが数多くあるのです。だから、初任者でも数百人の集団をコントロールすることが出来るのです。
追伸 『学び合い』を分からない人にいきなり異学年『学び合い』を見せるのでは無く、ちゃんとノウハウを教えてからでないとだめかな~っと思いました。
■ [大事なこと]再生産
私は教員養成系大学に勤めています。何年かに一度は推薦入試の面接を担当します。受験生には「何故、本学を志望したか」に類した質問をするのが通例です。試験管の方は、そんな回答に意味が無いと言うことを知っています。というのは、見事に定型的な話が延々と続くのです。しかし、これを言わせることによって、受験生の気持ちをほぐし、次の質問をやりやすくするためです。
では、その定型的な話とは何かと言えば、受験生の小中高で教えてもらった教師の話をします。その教師によって救われた経験を語り、そして自分も○○先生のような教師になりたいと語るのです。これが受験生の最初の質問に対する回答の七八割は占めているでしょう。中には涙ながらに語る人がいます。受験用の脚色や演技の部分を割り引いても、事実そういうことがあったと思います。
実は私にもそういう経験はあります。私の高校2年の最後の模試では英語の偏差値は27でした。他の科目もメタメタでした。その私が現役で筑波大学に進学できたのは、先生方のおかげです。特に英語のS先生、数学のH先生は夏休み期間もほぼ毎日高校に出勤し、私を個人指導して頂きました。結婚式にもご参加頂きましたし、今でも年賀状をやりとりしています。
教員養成系に進学した学生の多くは以上のような教師の恩沢に浴した人なのです。
しかし、一人の教師に与えられた時間は等しく1日24時間です。そして、私のような学習指導でも生活指導でも、個人指導の時間を膨大に必要としています。従って、私のような、そして教員養成系大学に進学する学生の多くが経験した教師の恩沢は、多くの子どもは浴せないのです。しかし、それが分かっていない。考えてみて下さい。今まで見たどんな教師ドラマでもいいです。クラスの三十人の内、スターが占める人数は何人でしょうか?それを変だと思わない人が大多数なのです。
過半数が分かって、大多数が不幸で無いクラスや授業だったらば、従来型の授業でも可能です。しかし、私は全員が分かって、全員が幸せで、それが一生涯の幸せに繋がるクラスや授業を作りたい。しかし、一部の子どもがとてつもなく不幸であり、それを見逃している子ども達も幸福では無いことを多くの教師や、教師の卵は知りません。
私は面接で、延々と恩師への感謝と尊敬を述べている受験生を見ながら、「あ~、このままの再生産が続くのかな~」と暗い思いに駆られます。残念ながら、クラスの同級生の楽しい思い出を主に語った受験生を一人も出会ったことがありません。(http://p.tl/aSFM)