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2013-03-02

[]若い研究者へ 19:41 若い研究者へ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 若い研究者へ - 西川純のメモ 若い研究者へ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 最近は臨床教科教育学会以外の学会に参加しません。5年ぐらいからその傾向がありましたが、昨年度である学会の学会誌編集委員長を終わってからその傾向は顕著です。理由はつまらないからです。

 送られてくる学会誌や大会要項を読むと、デジャヴに襲われます。一見最新の研究のように見えて、私が若手だったときに読んだ論文と似たような論文が多いのです。それと同様に、中堅・ベテランから「あいつは生意気だ」と非難される若手があまりいないように思うのです。

 私はもともと理科教育学が専門です。当時の理科教育学は比較教育学と教育史学の全盛でした。私が大学に入った当初はカードリーダーでプログラムを書いた大型コンピュータが現役で動いていた頃です。その脇でプログラムをコンピュータ上で編集できる大型コンピュータが動き始めました。そして、SASSPSS等の統計パッケージが使えるようになった頃です。

 当時の理科教育学にも量的研究が細々とありました。しかし、調査対象は百人程度で、統計分析もなされていませんでした。その状態は、理学部出身の私には噴飯物です。そこで、コンピュータの能力をフル稼働して、論文を書きまくりました。おそらく、理科教育学で厳密な統計分析で議論した論文は私が最初だと思います。

 当然、多くの調査対象のデータに統計分析をするべきであることは、みんな知っていました。しかし、当時、そのような統計分析を出来る大型コンピュータを駆使できる人はごくごくわずかです。私はそれを武器にしました。やがてパソコンの統計パッケージが売り出され、分かりやすい書籍が出版されるようになることによって、徐々に広がっていきました。

 次は、認知心理学に着目しました。当時の日本の心理学は諸外国に比べて20年以上遅れていたと思います。なにしろ既に時代遅れだとハッキリしてたピアジェ心理学が大手を振って闊歩していたのですから。その中で、外国帰りの活きの良い若手・中堅が認知心理学の本を出版し始めた頃です。

 なにげに読んだ認知心理学の本に私は虜になりました。それから読みあさりました。一枚をめくるごとに、新たな研究テーマがあふれてあふれてしょうが無い状態です。やがてそれは論文の大量生産になりました。当時の仲間からは、どの学会の学会誌を見てもお前の論文があるといわれました。

 当時の私は「生意気だ」、「哲学がない」と非難する声はありました。しかし、幸いに避難する中堅・ベテランがいる一方、なんだか分からないが活きが良いと可愛がってくれた中堅・ベテランがいました。そして、私と同様に生意気だと言われた若手が十人弱いました。その人達が一緒になって論文を出しまくりました。結果として、学会の潮流はハッキリと変わっています。今、学会で中心に動いている人たちは、その当時の「生意気」な若手です。

 しかし、私の年代以降に生意気な人が見当たらないのです。

 不遜ながら、我々の年代がパラダイム転換を引き起こしました。しかし、それ以降の人たちが、そのパラダイムの中でいるように思うのです。だから、つまらないのです。

 自分たちのパラダイムをぶちこわすようなことをすれば、当然、それを否定する人はいます。でも、逆に、それを奨励する人もいるのです。

[]若い研究者へ(その2) 19:41 若い研究者へ(その2) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 若い研究者へ(その2) - 西川純のメモ 若い研究者へ(その2) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は若い教育研究者が何故、『学び合い』に着目しないのか、理解不能です。『学び合い』のパラダイムに乗れば、ものすごい論文が大量生産できるのに、なんで?と思うのです。

 今までの教育研究では出来ないことが出来るかを説明しましょう。

 第一に、現在の方法論では、実験群と統制群を設けます。これは自然科学でよく使われる方法論です。この方法で自然科学は大発展しました。しかし、この方法ではどのような実験群を設けるかは、実験者の理論や能力に依存します。簡単に言えば、実験者の能力を超えることは出来ないのです。だから、凡庸な実験者の研究は凡庸以下のものしか出来ません。

 ところが、『学び合い』では基本的に実験群を設けません。その代わりに、子ども達に「これこれを解決しなさい」と求めら得ます。その結果、既存の枠組みに囚われない子ども達は凡庸な実験者を超える結果を出すこと出せます。例を挙げましょう。例えば、「いじめ問題」の教材をつくる場合、今までの研究では先行研究を基に、こうやればいじめ問題を解決できるだろうという教材をつくり、実践します。その結果を、今までの教材の結果と比較するのです。では、『学び合い』だったら、今まで開発された様々な教材を用意します。そして、それを子ども達に提示し、「それよりも良いものをつくれ」と求めれば良いのです。そして、子ども達の首にICレコーダーをブル下げれば、その作成過程が明らかになります。

 いじめ問題の本音と建て前をよく分かっているのは研究者ではなく、当事者です。それらが数十人、数百人がわいわいとやればどれほど面白い結果が出るか想像できませんよね。

 第二に、『学び合い』の授業では、先生が何をやったか、何を喋った、何を書いたかではなく、子どもの姿に注意が行きます。結果として、先生方の協力が得やすいのです。そして、統制群を設けなくて良いのですから、倫理的な問題も回避できます。

 我がゼミでは、数十、数百人の子どもと教師にICレコーダーをブル下げてもらって、数ヶ月にわたって記録させてもらっています。これは『学び合い』だから可能なのです。

 今、現在、『学び合い』を研究している研究室はごくごくわずかです。教育の様々な分野は手つかずで残っています。金やダイヤが山ほどあるのです。

 なんで若手研究者がそれをやらないか?

 一つだけ理由があります。『学び合い』は現状のパラダイムの外にあります。だから、そのままでは学会誌に載るのは大変です。でもね、それは私が若いときと同じです。でも、頭を使えば良いのです。ようは、一見、現状のパラダイムの中いるようにすればいいのです。書き方ですよ。