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陳腐化

 昨日のメモにも書きましたが、「自らの製品、サービス、プロセスを自ら陳腐化させることが、誰かに陳腐化させられることを防ぐ唯一の方法である。」というドラッカーの言葉が好きです。彼の本にはデュポンを例に挙げています。デュポンは1938年にナイロンを発売しました。しかし、それと同時にナイロンを凌駕する合成繊維の開発に着手したのです。

 さらにナイロンの価格を下げて、独自製品を開発する魅力を減じました。結果として他者はデュポンの特許を利用しナイロンを生産することになります。ナイロンのことをデュポンは知り尽くしているので、常に他者より一歩先んじていました。

 以上の戦略からデュポンは長きにわたって化学工業のトップに君臨していたのです。

 でも、考えてみれば、ドラッカーの言葉を知る前から、私は上記の戦略で生き残っていました。

 私の元々の専門は理科教育学で、そこで修士と博士の学位を取得しました。その頃の教科教育は古典的な教育学が隆盛でした。具体的には他国との比較教育が主流でした。理科教育の場合は、教材開発がそれに加わります。理学部出身の私には、それらがどうしてもなじめなかった。論理が飛躍し続けているし、そもそも実証的データの裏付けが無い。そこで、大型コンピューター、パソコン、また、教育統計学を徹底的に学びました。それを武器にしました。その当時は、100人ぐらいのデータを度数分布で議論したレベルでした。そこで、数千人のデータを林の数量化理論等のノンパラメトリック分析を駆使した論文を書いたのです。面白いように論文がアクセプトされました。

 やがてt検定レベルの分析を使う論文が学会誌に現れてくる頃になると、飽きてきたのです。

 次に武器にしたのが認知心理学です。非常に興味深い知見を明らかにしているのにもかかわらず、注目されなかった心理学分野です。若手の生きのいい5人(それらの人は様々な学会の学会長になりました)とチームを組みました。学会でも連続発表をして注目されました。初期の段階は大型コンピューターを駆使した力業でしたが、徐々に極単純な統計分析をするに留めるようになりました。これによって論文を増産しました。

 結果として、今までの教育では絶対に全員を分からせないことがハッキリしたので『学び合い』研究にシフトしました。これも面白いように論文を書くことが出来ました。

 限界効用逓減の法則で示されるように、同じようなことをし続けると生産性が下がります。バッサリと異質なことをやることが高い生産性を維持することが出来ます。

 ここまでが研究者となってからの十数年の時期です。それまでも何度も自分が育てて、学界で認められるようになった物を捨てて生きていきました。しかし、2000年ぐらいから大きなものを捨てました。捨てたというか、それに拘らなくなった。それは理科という教科です。

 おそらく、私がもともとの専門が理科教育学であることを知らない人は少なくないと思います。あるとき大学院の受験希望者から「私は理科専門なのですが、西川研究室に入れますか?」という質問メールが来た時、大爆笑しました。今世紀になってからの私はありとあらゆることを書いています。だから、私の専門はなんだか分からないと思います。

 そして、最近は『学び合い』を殆ど書かない、時には全く書かない本を出版するようになっています。最新刊は投資の本なのですから、自分でもビックリします。

 さて、退職も近づいていますが、今の私を陳腐化して、私はどの方向に進むのだろうか?正直、全く分かりません。

追伸 時々思います。40歳代までに書いた理科教育関係の論文数はおそらく史上3位以内には入っていると思います。日本理科教育学会の学会賞を受賞したのはたった14人ですが、その最年少記録は私です。日本理科教育学会の学会誌編集委員長を最年長で務め、務めた期間が最長なのは私です。だから40代以降何もしなくても、理科教育学の中で生きていたら、とても楽に生きられたな~と思うことがあります。22歳で大学院に入り、理科教育学を学んでいた頃の私が、今の私をどう見るだろうと思います。