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2014-01-12

[]研究 10:37 研究 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 研究 - 西川純のメモ 研究 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 定義の仕方としては、内包的定義と外延的定義が有名です。前者はそのものの全てが満たしている条件を挙げることによって定義することです。ところが我々の概念の多くは族類似性という特徴を持っており、内包的定義は出来ないことをRoschという人が明らかにしました。つまり、我々があるものを「犬」か否かを判断するには、数多くの特徴に着目します。その特徴が多ければ多いほど「犬」だと判断するようになるのです。しかし、面白いことにその全ての特徴を持つ「犬」は存在しないのです。

 外延的定義はそのものを全て枚挙して定義する方法です。でも、日本の大都市のように数十ぐらいで収まる定義でしたら可能ですが、それ以上になると訳が分からなくなります。

 教育で扱われる言葉は、抽象的につくられた概念では無く自然発生的に生まれた概念ばかりです。その一つ一つが多様で、多数です。だから、教育では定義がものすごく難しいのです。で、定義されない言葉が踊ることになります。

 じゃあどうするか?操作的定義が有効です。つまり、概念からそれを判別する方法を考えるのでは無く、判別する方法を最初に定め、それによって概念を定義します。もっとも有名なのは知能指数です。知能指数とは田中ビネー検査で測定されるもの、と定義できます。

 では学力をどのように定義したら良いでしょうか?田中ビネーほど広く受け入れられた測定法は無いですね。その場合は、自分たちで決めるのです。例えば、日々使っている業者テストで定義すれば良いのです。

 そう言うと、学力は業者テストの点数では無い、といわれる方が少なくない。でも、その方に伺いたいのですが、では、それより測定方法があるでしょうか?おそらく言葉に詰まるはずです。だから、決めない、では宗教活動になってします。だったら、まずは、そこから始めるべきだと思うのです。

[]必要とする人 09:51 必要とする人 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 必要とする人 - 西川純のメモ 必要とする人 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 各人、それぞれの健康法がありますよね。特に、三十後半の人には。例えば、毎日、あるものを食べるとか。我が家にもあります。毎日、ゴマときな粉を混ぜた牛乳を朝飲んでいます。私はこれは良いことだと思います。少なくとも、それを食べれば良いな、と思っているならば、それだけで良い効果はあります。

 でも、万人すべからく効果があるわけではありません。効果のある人もいれば、それほど無い人もあります。ま、ゴマときな粉を混ぜた牛乳を朝飲むことがマイナスに働くことは無いですが、でも、アレルギーの人もいますよね。

 もし、私が国の絶対権力者で、私の経験から国民全員にゴマときな粉を食べることを強いたらどんなことがありでしょうか?良いとは思えません。

 さて、ここまでは納得ですよね。

 本日は臨床教科教育学会が上越でありました。学会では理論と実践の往還がテーマです。私なりの意見をシンポジウムで話しました。でもね、本音トーク満載の会でしたので、面白かったですよ。文科省のお役人(若い方で、やる気のある方です)もいっしょになって話しました。面白かった。断言します、私の参加した学会のシンポジウムで、面白さはナンバーワンです。

 懇親会です。その時、ある方から「理論と実践の往還は、大学より現場が必要としていることです」と教えて貰いました。なるほどと思いました。

 残念ながら、理論を担当している大学と、実践を担当している学校現場のは音信不通状態です。それをつなげようとして臨床教科教育学会を立ち上げました。

 ところが大学の研究者はいまのところ学校現場と音信不通であっても、その世界の中では生きられます。だれかさんの思いつきで、これこれしなさいとはいわれません。ところが、学校現場は思いつきであふれています(http://p.tl/UQXI)。数少ない自分の経験を安易に普遍化し、それを人に強いることにあふれています。私の知る限り、学校現場で強いられていることの圧倒的大多数は、学術的には効果が無いことが明らかにされています。

 文科省レベルの提言の場合、必ず学術研究者が一定数以上呼ばれ、吟味をされます。ある学者が正しいと確信していることでも、別な学者はそう思っていません。結果として、細かいところは並立表記にしています。

 ところが、県や市レベルでそのようなことはあまりなされていません。残念ながら、学術を馬鹿にしています。結果として、そのチェックを受けていません。そして、県や市のレベルでは、その組織全体の議論の結果では無く、その組織のごく一部の判断によって決められてしまします。その結果、学術的には明らかに誤りであることが、学校現場の一人一人の教師が強いられるのです。学校現場の多くの人は教育の学術の成果を知りません。そのため、強いられて、嫌だな~、効果が無いな~と思っても、それに対する反論の根拠を持たないために、それに甘んじます。

 学校現場は学術に従う必要はありません。取捨選択するのは、現場の人です。でも、学術は多くの人が、膨大なデータに基づき積み上げているものです。個々人のおもいつきよりは、「まし」であることは確かです。

[]研究 09:46 研究 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 研究 - 西川純のメモ 研究 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 多くの方は胸に手を置いて聞いて頂きたい。

 大学に異動してから、多くの研究会に参加しました。しかし、その学校の研究がどうして研究だと思っているのか理解不能でした。義務教育を理解していない私の不勉強だと思ってなんとか理解しようとしました。しかし、分かりました。あれは宗教活動なのだと。

 私が理解不能だったのは、以下の点です。

 例えば、ある学校で「豊かな言語活動」を目指した研究をしていたとします。その学校の方に「豊かな言語活動」とは何かを聞けば、99%以上は叙情的な表現をされます。次に、それが成り立ったか、否かを判断するのはどうやるのかを聞くと、目が点になります。そして、「何でそれを聞くのか?」という風になるのです。もちろん、それが成り立ったか、否かを判断する基準が明確であったほうが良いことは理解されているようです。でも、必須事項とは考えていないのです。そのことに私は目が点になります。

 科学研究とはどのようなものを指しているのでしょうか?もっとも広く受け入れられている定義は反証可能性があるものです。簡単に言えば、どのような手段によっても間違っている事を示す方法が無い仮説は科学ではないということです。もし、「豊かな言語活動」の定義が明確で無く、したがってその反証可能性が無いならば、科学研究では無いのです。

 断言します。皆さんのお勤めの学校の研究主題で、反証可能性がある場合はまずありません。「豊かな言語活動」だけではなく、学力の向上でさえ、どの点数を学力と考えるかは明確ではありません。

 不思議なことに自然科学研究をした理科系の人でさえ、そのことに奇異を感じなくなるほど学校の現状は異常です。

 研究主任の説明で使われる図は、私にとっては密教の曼荼羅図に見えます。なにしろ、関係しそうな名詞が全てそこに書かれており、そして全てが繋がっているのです。全てが繋がっている図は何の情報もありません。おそらく曼荼羅図の方が遙かに理論があります。

 その曼荼羅図を前にして、定義不能の学力等の「真言」が唱えられている状態が、研究会で研究主任が説明している姿です。そこにはその地域の枢機卿、大司教、司教、司祭が並んでいるのです。宗教活動以外の何者ではありません。だから、何十年積み上げても何も生まれません。だって、反証可能性の無い答えがそこにあり、予定調和的な営みがなされているのです。

[]不勉強 07:28 不勉強 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 不勉強 - 西川純のメモ 不勉強 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 「陰陽道」や「占星術」にもとづいた法案が国会で審議され、それが通過し、法となったらとしたら日本はどうなるのでしょうか?そんな馬鹿げたことは無い、と思うでしょ。でも、日本の一部には、それが成り立っているのです。教育です。

 職業柄、色々な学校の研究発表に参加します。そこでは研究主任がその学校の研究の理論的(?)説明をされます。それを聞いていると、吹き出すようなことはよくあることです。「陰陽道」や「占星術」レベルの時代遅れのことを書いているのはざらです。おそらく、その方が大学学部で聞いた授業で、聞いたことで進歩が止まっているのでしょう。さらに悲惨なのは、その人が聞いた授業を講義した大学教師が不勉強で、その大学教師が二十代、三十代に学んだことを五十代、六十代の授業でやれば、半世紀昔のことが最新理論のように思ってしまうのでしょう。

 また、聞きかじりレベルの理解しか無い場合、無茶苦茶な組み合わせをします。例えば、マルクス・レーニンとケインズを一緒にして、ヒトラーのわが闘争を少々加えた経済理論を発表したら、吹き出しますよね。でも、学校研究会ではよくあることです。

 そんなレベルだから百年以上前の五段階教授法の変法が、未だに学校現場に強いられている。ちょっとは勉強してよ、と思います。ま、大学の情報発信が駄目だということが最大の原因ですが・・・・

[]理論と実践の往還 07:14 理論と実践の往還 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 理論と実践の往還 - 西川純のメモ 理論と実践の往還 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 理論と実践の往還を学び取るとしたら、理論と実践の往還を果たした人から学ぶことだと思います。具体的には、一定以上売れる実践書を書き、かつ、学術の業績を持つ人です。

 実践書を書かなくても良いじゃ無いか、と思う方もおられるでしょう。たしかし実践書を書かれてはいないが、素晴らしい実践をされている方はいます。でも、その方の実践を学ぶのは「他人」なのです。「その人が出来る」ことがポイントでは無く、その人が出来ることを「伝える」ことがポイントです。だから最も確かな方法は「一定以上売れる実践書を書いたか否か」だと思います。

 学術の業績を持つ、ということも同様です。具体的には日本学術団体に登録されている学会の査読制度がある学会誌に掲載された論文業績を持っているか、否かです。その人が理論を持っているかではなく、その理論を伝えることが出来るかがポイントになるからです。

 多くの大学では、理論担当の大学教員と実践担当の大学教員がいて、両方から学んで、理論と実践の往還を学び取ります。センターの研修では、大学教員の理論的な講演を聴く機会を与えます。しかし、そんなことで理論と実践の往還が分かるわけない。絶対に。だって、自分なりの理論と実践を学ぶのは本当に大変です。

 私は高校教師として色々な経験をしました。でも、そこで大学・大学院で学んだことはほぼ役に立ちませんでした。何故ならら、大学・大学院で学んだことは、全て「学ぶ構え」がある子にどのように教えたら良いか、ばかりです。ところが学校現場で必要なのは、その構えの無い子にどのように教えたら良いかです。そのため、私の頭の中で理論と実践は全く分離しました。多くの教師は私と同じ経験をしているのだと思います。

 縁あって大学の教師になりました。高校教師で自分が実現できなかったことをどのように実現したら良いのか、その思いで研究をしました。しかし、大学のコミュニティの中で生き残るには学術業績が必要です。学術業績を上げるには、現場に役に立つか否かは殆ど関係なく、学術の作法に則っているか否かが重要です。その中で実践を意識した理論を構築する志を維持するのは並大抵ではありません。

 これは学校現場でも同じです。学校現場のコミュニティで生き残るには、そこでの実績を上げなければなりません。そして、その実績を上げるには、学術との関係を明らかにするとか理論的背景を持つことは殆ど関係なく、現場の作法に則っているか否かが重要です。だから、大抵の教師は私と同じように大学で学んだことを就職後に早々に捨てます。これは現職教員として大学院で学んだ人も例外ではありません。

 大学も現場も、「直ぐに使える」ものに走ります。自分自身で直ぐに使えないものを直ぐに使えるものに成長させるのは当人の志もさることながら、勤めている環境に大きく左右されます。

 私の場合は、大学コミュニティで生き残る膨大な業績を上げました。でも常にむなしかった。だって、私の教育の原体験を与えてくれた高校の教え子には役立たないことが十分すぎるほど、分かっていたから。

 普通の人が考える「理論と実践の往還」とはどんなものをイメージするでしょう。例えば、理科教師が実験法を開発するに際して、物理学や化学の理論を駆使すれば理論と実践の往還が出来たと思うのでは無いでしょうか?ある日の国語の教材を考えるとき、それを実践した学術論文を参考に出来たとき理論と実践の往還が出来たと思うのでは無いでしょうか?でも、それは違うと思います。

 理論と実践の往還とは、その人の実践が全て学術に基づく理論に裏打ちされることであり、その人の学術が全て実践に裏打ちされることです。そんな1時間、1単元の問題ではありません。日常の考え方、生き方レベルだと思います。

 昭和62年4月に大学教師になりました。最初は認知心理学をベースにしてそのような理論を構築しようとしました。たしかに6割以上の子どもに良い影響があり、テストの点数が二十点弱ほどあげるようになりました。でも、私的にしっくりこなかった。なぜなら私が高校で教えた子には有効で無いことは明らかだから。そこで平成8年頃から『学び合い』に全面的にシフトし、今に至ります。

 不遜ながら申します。今では、小中高の様々な教科の先生方の悩みを、直ぐに理論的に分析し、対応策を語れるほど『学び合い』は進化しました。でも、そうなれたのも数百人のゼミ生と数多くの同志の皆さんの協力を得て、三十年弱の月日をかけたから出来ました。

 このレベルのことを、理論担当の大学教員と実践担当の大学教員がいて、両方から学んで、理論と実践の往還を学び取ることが出来るでしょうか?センターの研修で、大学教員の理論的な講演を聴くことで得られるでしょうか?無理だと思います。

 理論が無くても、素晴らしい実践を出来る方はいます。でも、そのような方は希です。そして、そのような方も、その素晴らしい実践を人に伝えることは出来ません。何故なら、子どもはその人の語りや教材で動かされているのでは無く、その方の「人」によって動きます。それを伝えることは難しい。その方と日常的に接し、薫陶を受けるならば可能かもしれません。しかし、その恩沢に浴せる方がどれほどいるでしょうか?まずいません。

 あることを確実であるかを保証し、それを確実に人に伝える方法として十八世紀以降の多くの人が作り上げた作法が、学術です。それが分かりやすいか否かは意見の分かれるところでしょう。でも、最も確実であることは確かだと思います。おしかりを承知で書きます。斎藤喜博先生、大村はま先生は優れた実践者です。でも、研究者ではありません。斎藤喜博先生は大学教師かもしれませんが、研究者ではありません。なぜなら学術論文も書かれていませんから。その著作は素晴らしいものですが、学術の作法を知りません。その方々が十八世紀以降の多くの人が積み上げてきた学術を乗り越えるだけの確実性を持つと信じることは、これは信仰ですね。(ま、科学を信じるということも信仰ですが)

 繰り返しますが、理論が無くても素晴らしい実践が出来る人もいます。でも、その方も出来ないことは、その方の「コア」を人に伝えることは出来ないのです。また、お上からのお達しに対抗するとき、ちゃんと対抗できません。最終的には「私はそう思う」、「私はそうだった」の低レベルの議論になるでしょう。それではお上のお達しに対抗できません。

 これを学ぶには、教師が学ぶには実践と往還できる理論を大学・大学院で学ぶしかありません。残念ながら、現在の現場教師には理論と往還できる実践を構築するだけの時間的余裕がありません。大学には、その時間とマンパワーがあります。でも、大学で与えられるのは「種」にすぎません。その種を現場に持って行き、豊かな実践にするのは現場の教師です。多くの方は、その方から学べばいい。でも、全国的にいっても、「一定以上売れる実践書を書き、かつ、学術の業績を持つ人」は殆どいません。もっと増えて欲しいと願います。そのためには、研究者と実践者が交流し、研究者が実践書を書き世に問い、実践者が学術論文を書き学会に審査を受けるべきです。