■ [う~ん]校長の喜び
う~ん、書くべきでは無いと思うのですが、どうしても書きたくなって書きました。
高校教師から大学教師になって、毎日、「何で大学に異動したんだろう」と酒を飲みながら泣きました。自己憐憫です。教員として子どもと接する喜びを知れば、当然のことだと思います。でも、教員の喜びとは何でしょう?感激の涙を流すほどの喜びです。
現状の授業で、それを感じられる教師がどれだけいるでしょうか?
私の元々の専門は理科教育です。理科の授業で「良かった」、「やった」と思えて満面の笑みを浮かべられる授業は私にもかなりあります。そして、「ぞくぞく」として「俺って、凄い」と思える経験もかなりあります。しかし、『学び合い』以前に「教師という職業は凄い」、「生きてて良かった」と感激し泣いたことは一度もありません。
だから、おそらく心ある教師はその埋め合わせに、総合的な学習の時間や部活の時間に燃えます。でも、『学び合い』なら、その感激を教科学習で感じられるのに。
でも、校長の喜びって何だろう、と思います。
校長だって、教師の心があれば、私が大学に異動したと同じように心の渇きを感じるでしょう。では、どうやって渇きを癒やすのだろう。
多くの学校には「○○っ子」云々かんぬんという取り組みがありますが、見ても横並びの感をぬぐえません。また、大きな大会を誘致し、目立った実践を発表することもあるでしょう。でも、その実践に普遍性はありません。「良かった」、「やった」と思えて満面の笑みをを浮かべられることは出来るでしょう。そして、「ぞくぞく」として「俺って、凄い」と思えるこどもあるでしょう。しかし、「校長という職業は凄い」、「生きていて良かった」と感激し泣いたことがありえるでしょうか?無いと思います。
私にとって子どもはゼミ生です。そして、全国の同志です。その人たちが子どもに接し、その子どもの姿から「教師という職業は凄い」、「生きていて良かった」と感激し泣いた経験を知ることによって、「大学教師という職業は凄い」、「生きていて良かった」と感激して泣きます。私のなにがしかの言動が、教師とそのクラスの子どもの幸せに繋がったと確信できるからです。
おそらく校長にとっての喜びは、私と同じだと思います。管下の職員を動かし、その職員が子どもの姿から「教師という職業は凄い」、「生きていて良かった」と感激し泣く時、はじめて、職員と子どもの幸せの実現の自らの存在意義を感じます。
さて、この喜びを感じられる人がどれほどいるでしょうか?これを実現するには、「良かった」、「やった」と思えて満面の笑みを浮かべられる授業や、「ぞくぞく」として「俺って、凄い」と思える授業では無く、「教師という職業は凄い」、「生きていて良かった」感じるには何が必要かを理解しなければなりません。
そして、校長はごく普通の教師、さらに言えば、それ以下の教師にも、その感激を与えるのが仕事です。そのためには、シンプルなセオリーに基づき、みんなとやるしかありません。分からない人には、分からないだろうな。