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2016-01-05

[]スターウォーズ 20:50 スターウォーズ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - スターウォーズ - 西川純のメモ スターウォーズ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日はスターウォーズ・フォースの覚醒を見ました。初めてスターウォーズを見る息子は大喜びでした。しかし、私は唖然としました。今までのシリーズに比べると2ランク下がります。

 いつか見たような戦闘シーン。

 殆どのシーンがごく狭い空間。

 大幅に省略されたエピソード。

 ところが、ネット上での評価はそれほど低くない。

 ゲド戦記、ポニョレベルのガッカリです。私の方がおかしいのかな~・・・

[]仕事の速さ 20:33 仕事の速さ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 仕事の速さ - 西川純のメモ 仕事の速さ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は筆が早いと言われます。事実早いと思います。

 多くの人から「西川先生は別です」と言われます。私は凡夫です。しかし、原稿の書き方を知っています。

 第一に、多くの人が知らないことは、凡夫は素晴らしい文章を書けません。どんなに時間をかけても。(断言)だから、素晴らしい文章を書こうとすると仕事が止まります。そして時間をかけても書けないのですから、時間をかけること自体が無意味です。無理なのですから諦めましょう。

 時間をかけても、かけても書けないのであれば、誰だって気が滅入ります。大人のルールを守れる人は、どっかの時点で、「えいや!」と書くことになります。おそらく、最初に書いた文章とそれほど変わりません。

 じゃあどうするか?とにかく字数を埋めることに専念します。原稿で頼まれることは日々の仕事に関連することです。だから、とりあえず今ある材料を流し込み、字数を調整すればいいのです。

 第二に、凡夫なりのいい文章を書く方法です。それは、それをより多くの人に読んでもらい意見をもらうことです。より多くの人に読んでもらうためには、早く書き上げなければなりません。

 第三に、では早く書き上げる方法は何か?時間をかけることです。人間の時間は有限で、誰もが24時間です。だから、それ以外の時間を削るしかありません。書けない理由は時間をかけてないからです。

 以上、非常に単純です。

 おそらく、私を知っている人だったら、「忙しくて」という理由は言えないと思います。私はもの凄く忙しいですから。

私は特別だという理由は以上の通りです。つまり、書けない理由は「実際にとにかく書く」ということに時間をかけていないという至極単純な理由です。

 遅い人はしかたがありません。書き方を知らないし、だれからも教えてもらっていないから。だから、書き方を知ればいいのです。ようは、とにかく書く。質は天才が担当すればいい。凡夫は期限を守ることを大事にすることです。

[]未来 12:08 未来 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 未来 - 西川純のメモ 未来 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 人工知能・ロボットの時代に残る職業はおおよそ二つのタイプだと言われている。

 第一は、ビックデータを利用できない、過去に類例の無い課題に対して解答を出すこと。ただし、これは天才の仕事で一般人には関係ない。

 第二は、個々人の嗜好性にあった「その人」相手のサービスを生み出すこと。

 ただし、これにも2種類ある。多くの人が喜ぶが、ただし、喜ぶものが一人一人違うこと。これは既にあるデータを利用すれば提供できます。例えば、こんな例があります(http://adgang.jp/2015/06/97944.html)。これは大きな組織の方が勝ちます。

 じゃあ、圧倒的大多数の普通の子どもの未来はどんなもので勝負したらいいか?

 それはローカルだと思います。

 顧客が限定され、それ故に大手が参入しない、そんなニッチだと思います。

 例えば、地方のバス会社の場合、顧客がどんな経路を求め、どんなダイヤを求めているかを調べ、それにあったサービスを提供することなどが考えられますね。また、小型タクシーを併用して隙間を埋めるなんてこともあるでしょう。

 学校も同じです。

 顧客が限定されています。でも、成績を上げるためのツール提供は大手の会社のネットサービスに勝てないでしょう。じゃあ、学校の先生はどうやって生き残るか。それはそのローカル特有のサービスを創造することですね。例えば、地元企業と連携したデュアルシステムを構築するジョブ型高校が今後の勝ち組になると思います。小学校も、中学校も、そのような高校と連携するのです。

 子どもはどうでしょうか?

 そのような地域の人とつながりを持ち、商品や価格ではなく、その人と取引をしたいという関係を築ける人がローカルの勝ち組になるでしょう。私はローカルエリートと言いたい。

 でも、そんな人はごく僅かです。でも、人間関係を築ける人と関係を結べる人は生き残ることが出来ます。例えば、対人関係に障害がある人と関係を結べるような人材がいて、その人とローカルエリートが繋がれれば大丈夫。

 つまり、クラスの中でグローバルエリートが一人巣立ち、グローバル大学創世支援のトップ校に進学する。そして、クラスの5人はジョブ型大学に進学し、ローカルエリートに育つ。のこりの25人はジョブ型高校に進学し、地元で生活する。伴侶は中学校までに見つけて、両方の両親と一緒に支え合う。

 そんな妄想を持ちます。ネックは学校だろうな。

追伸 それにしても、私は教科教育学研究者なんですが。規格外だな~

[]繰り返し 07:15 繰り返し - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 繰り返し - 西川純のメモ 繰り返し - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私のメモを読まれている方の中には、『学び合い』に反対している方、疑問を持っている方がかなり含まれていると思います。当然です。しかし、教師としてではなく、親として祖父母として以下をお読み下さい。

 今のところ正規雇用の人が多くを占めています。しかし、お子さん、お孫さんの半数は非正規雇用になります。そして非正規雇用の人の平均年収は170万円で、その収入は変わりません。その様な人が増えてきます。さらに、正規採用であっても40歳代後半にリストラになり非正規雇用になります。今の法律では非正規雇用が拡大しやすい法なのです。今、日本が1950年代以前、つまり高度成長期以前の日本に戻っているのです。蟹工船、女工哀史を読めば、今、非正規の人に起こっていることと同じことが書かれています。

 その非正規の中には、500万円以上の有利子の借金をして大学を卒業した人がかなりを占めます。その人達は月2万円を変換しなければならないのです。返還が滞れば、訴訟になり、経済的な落伍者の烙印を押されるのです。

 下流老人の問題が今顕在化しています。さて、今ですらそうだとしたら、子ども達が老人になる頃はどうなるでしょうか?年金がどうなっているのでしょうか?いや、年収170万円で月2万円返還しなければならない人が年金を積み立てられるでしょうか?

 生活保護を受けず、受けられず餓死する人は今でもいます。それが増えるのです。

 我々の多くは、正規採用です。その恩沢によくしているため、非正規の厳しさを知りません。遠い世界の話、レアケースと思っているかもしれません。しかし、公的機関の各種統計には上記がハッキリと示されています。

 アクティブ・ラーニングは社会で飯を食える能力です。ブラック企業に騙されない、騙されても逃げられる、クビになったとき再就職を出来るための教育なのです。餓死・孤独死しない教育です。

 簡単に言えば、苦しい時に手をさしのべてくれる仲間を全ての子ども(部活に入っていない子どもも、教室で孤立傾向の子どもも含めて)与える教育です。それがアクティブ・ラー人における「倫理的・社会的能力を含めた汎用的能力の育成」だと思います。

 おしかりを覚悟で申します。

 あなたの子どもや孫が非正規雇用になり、あなたが死んだ後に餓死・孤独死したとしたら、その責任は政府にあるのではなく、「あなた」の責任です。

 むかっと、するかもしれません。お詫びします。でも、その怒りのエネルギーで、是非、社会の現状を調べて下さい。ネットで直ぐに分かる程度で結構です。

 今の若者が就職した場合、正規採用になる割合。

 非正規雇用の年収。

 派遣法、入国管理法の最近の改定。

 企業の潰れるまでの年数。

 ハローワークで職を探す人の年齢層。そして、募集される職種。

 そして、我が子、我が孫の将来を考えて下さい。今の教育で大丈夫ですか?

[]総合的な学習の時間 06:45 総合的な学習の時間 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 総合的な学習の時間 - 西川純のメモ 総合的な学習の時間 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は総合的な学習の時間は「横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに,学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的,協同的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにする。」に尽きると思います。

 これを読んでどう思われるでしょうか?

 私には「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。」というアクティブ・ラーニングの定義と似ていると感じます。

 当たり前のことです。どのような大人になるか、そのためにどのような能力が必要かが10年、20年で変わるわけありません。強いて両者の違いを挙げれば、「倫理的、社会的能力」を含めた汎用的能力をアクティブ・ラーニングで求めている点でしょう。これは経済・産業界の社会人基礎力の影響だと思います。

 これからアクティブ・ラーニングで起こるであろうことを総合的な学習の時間で起こりました。

 総合的な学習の時間では「横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して」に注目があつまり「クロスカリキュラム=総合的な学習の時間」の枠組みが出来たように思います。そして、「自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに,学び方やものの考え方を身に付け」がおろそかになりました。

 具体的には、「教師が課題を見付け」、「教師が学び」、「教師が考え」、「教師が主体的に判断し」、「教師がよりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに,学び方やものの考え方を身に付け」ました。私は様々な総合的な学習の時間の研究発表会に参加し、実践を見させていただきましたが、その大部分はそうです。子どもに配付される資料(当日、参観者に配られる資料)は「教師」の努力の跡がありありと見えます。そして授業における会話は「教師→子ども→教師→子ども→教師→子ども→教師→子ども→教師→子ども→・・・」が大部分を占めており、教師と子どもの協働はありますが、子ども同士の協働の割合が低い。もちろん研究発表の場面で子ども同士の活動の部分をぶつければ割合が高まりますが、単元全体としてみれば「教師→子ども→教師→子ども→教師→子ども→教師→子ども→教師→子ども→・・・」が大部分を占めます。

 その結果として、「自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断」する時間が相対的に低くなります。その結果、「よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに,学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的,協同的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができる」ことが弱くなります。

 仕方がありません。今の教育では、子どもを大人にするという意識が弱い。そして、教師の視野はその1時間、その単元が成功することに主眼が置かれます。確実に活動がなり立つためには教師がしっかりと準備をしなければなりません。教師の老婆心が総合的な学習の時間を変質させてしまうのです。

 我が息子がお世話になった上越教育大学附属小学校は本当に総合的な学習の時間を大事にしています。あれだけやれば子どもの主体的な能力も高まり、教師も信じることが出来て、それ故にもっと任せることが出来ます。しかし、そのためには総合的な学習の時間をカリキュラムの中心におかなければなりません。そして、各学年での活動の蓄積があり、教師の中でそれが文化として継承されている。また、上級生の活動を下級生が見ることによって、子どもの中で文化の継承がなされている。それは一多くの一般校では難しいと思います。

 その結果、落としどころとして、クロスカリキュラムになってしまいました。事実、「総合的な学習の時間=クロスカリキュラム」といような書籍も当時はあったと思います。しかし、クロスカリキュラムはどうでもいいことのように思います。何故なら、教科は全て多かれ少なかれクロスカリキュラムです。例えば、社会科などはその典型です。社会科の背景とする学問は日本史、世界史、哲学、倫理、人文地理、自然地理等があり、大学の学部で言えば理系も文系も含んでいます。まさにクロスカリキュラムです。しかし、教科書が出来て50年もたてば、それがクロスカリキュラムだなんて思う人がいなくなります。国際理解だってそれの教科書が生まれ、50年もたてばそれがクロスカリキュラムであるなんて思わなくなります。

 さて、今から二十年前のことです。総合的な学習の時間華やかなりしころ、上越ではもの凄く盛んでした。大手町小学校、附属小学校には全国から参観者が集まってきました。その横で『学び合い』研究を始めました。『学び合い』における子どもの様子を見ていると、まさに、「自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成する」ことが出来ているのです。扱っているのは、今まで通りの教科です。クロスカリキュラムではありません。しかし、同じ内容を学ぶにしても、その教科の得意な子と不得意な子の頭に浮かぶものは全く違います。それらが関わり合うとき、結果的にクロスカリキュラムになります。そして、「みんなが分かる」という超難解な課題を毎日取り組むのです。まさに、「横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに,学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的,協同的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにする。」です。つまり、『学び合い』によって教科学習全部が総合的な学習の時間になります。

 アクティブ・ラーニングとは、総合的な学習の時間で求めていたものを教科学習全体に広げるものであると言えます。おそらく、総合的な学習の時間で「教師が自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成する」になったように、「教員と子どもの双方向的な講義形式」になってしまう場合が多いでしょう。総合的な学習の時間が「横断的・総合的な学習や探究的な学習をやればいいんだ」と同じように、アクティブ・ラーニングも「発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等」をやればいいだ、になるでしょう。

 でも、踏ん張らなければなりません。今の教師が「楽」なのはそのような変質ですが、それでは子どもの将来は「楽」ではありません。子どもが餓死・孤独死しないためには、苦労を共に乗り越えた仲間を全ての子どもに与えなければならないからです。