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2017-10-09

[]生物学 21:47 生物学 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 生物学 - 西川純のメモ 生物学 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は大学で生物物理学を学びました。今では良かったと思います。ゴチャゴチャした生物現象を、数学・物理のモデル思考で考えるトレーニングを恩師石坂先生、小林先生から教えてもらえました。いまでも、その思考方法は私の武器です。

 教育に関する著作を読むとき、最も根本的な部分で実証的なデータがあるかどうかを確認する「くせ」があります。残念ながら教育の場合「そうなんだから、そうなんだ」とか「偉い人が言っているからそうなんです」のレベルの言明が多すぎる。『学び合い』は「一人も捨てたくない」という願いがありますが、それは願いであると自覚しています。それが公理であるとは申しません。あくまでも仮説なのです。ところが、「そうなんだから、そうなんだ」とか「偉い人が言っているからそうなんです」のレベルの言明が公理になっていると、ものすごく違和感を持ちます。

 さらに、その仮説から飛躍した方法論が出ると、吐きたくなるほど違和感を持ちます。

 私は、教育での言明において生物学的に妥当かどうかを基準としています。もっと分かりやすく言えば、サルの社会でそんなことをサルが思うか、行動するかです。

 ちなみに「多様な人と折り合いを付けて自らの課題を解決すること」は全生物が妥当します。ただし、多くの生物は棲み分けによって解決しています。そして「学習者は有能である」という集団の有能性は群れる生物では正しい。

 ということは生物学的に学校観、子ども観は正しい。

 そして、人類のこの数千年の社会の形成から言って、一人も見捨てない、という徳目は得目であるのです。

 ということは、失礼ながら理系でないと分かりづらいかも。文系は、人社会(特に近世以降)を出発点にするから。

[]ローカルエリート 18:02 ローカルエリート - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ローカルエリート - 西川純のメモ ローカルエリート - 西川純のメモ のブックマークコメント

 グローバルとローカルという言葉があります。これは世界的なものがグローバルで、日本や県や市のレベルのものがローカルだと使われることが多いように思います。しかし、私は違った意味で使います。

 私は、その価値・価格で勝負するのがグローバルで、人間関係とそれに基づく個人情報で勝負するのがローカルです。例えば、手作りの人気アニメのフィギュアを売っており、顧客が世界中に二千人おり、その人達との長いつきあいで仕事をしているとしたら、それはローカルです。

 さて、エリートにもグローバルエリートとローカルエリートがいます。

 例えばフォン・ノイマンやウィリアム・ショックレーは天才の名声をほしいままにしました。しかし一方、性格的にかなり破綻していたようです。が、それが彼らの名声に差し障ることはありませんでした。彼らは人付き合いで勝負しているのではなく、彼らの生み出すもので勝負しています。

 このような天才を凡人の教師が育てられるでしょうか?無理です。最善の道は、邪魔しないことです。例えば、お節介な「宿題」は邪魔でしかありません。

 でも、このようなグローバルエリートは極々少数です。

 ローカルエリートはグローバルエリートと同様に、いや、それ以上に社会を動かしています。彼らの武器は、人間関係です。仮に、そのアイディアが卓越したものでなくても、人を動かせるならば社会を動かすことが出来ます。その人が「やろうよ」と声をかけたら動く人が多数いるならば大きな事が出来ます。地域コミュニティーを動かしているのはそのような人です。

 では、このようなローカルエリートは凡人の教師が育てられるでしょうか?

 それは、学校教育で人との繋がりが武器になることを理解させ、繋がる仲間を増やすことです。つまり、「多様な人と折り合いを付けて自らの課題を解決すること」を学ぶ『学び合い』です。

 つまり、グローバルエリートとローカルエリートを共に育てたいならば、学習指導要領で定められた最低限度のことを全員達成することを求め、それに教師も答えが分からない発展的な課題を与えることです。

[]その先 08:54 その先 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - その先 - 西川純のメモ その先 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』を学んでいる社会科の先生が『「これからの社会」に順応する人は育てられるけど、「これからの社会」を変えられる人は育てられないのかなぁ。「これからの社会」を批判的に作り変える人を育てられるのが社会科。『学び合い』と社会科の理念をうまく折り合いをつけてやっていけたらいいなぁ。』と発言されていました。

 この「これからの社会」という言葉はすてきです。

 私もそう思います。

 ただ、私の書いていること、言っていることの9割以上は「生き残る」を中心としています。何故なら、子ども達の多くは「生き残る」ことが危ういから。そして、「これからの社会」を生み出す子どもを育てるには、入門段階の『学び合い』では無理だからです。私の相手をしている方の殆どが入門者ですから、あまりそのあたりを書きません。(書いているのは『学び合い』の手引きの「ルーツ&考え方編」と「アクティブな授業づくり改革編」と汎用的能力をつけるアクティブ・ラーニング入門ぐらいです。)

 『学び合い』には入門の先があります。その先に行けば、「これからの社会」を生み出す人を育てることが出来ます。

 ただ、誤解しやすいのですが、その方法は今まで通りの教材研究によって生み出すと思いがちですが、それは不可能です。

 何故でしょう?それは、教師の多くは「これからの社会」を生み出す人ではないからです。

 成績で言えば、上の下から中の上、せいぜいいって上の中どまりです。

 指向性は基本的にローカルです。だから、地元の大学に進学し、地元に就職する人が多いのです。

 その教師が練りに練った教材をつくれば、自分のような人間にはフィットするし、自分のような人間を生み出すことは出来ます。しかし、自分が発想できないようなことを発想し、グローバルに発信し、動かすような子どもは作れません。では、どうするか?自分でも分からないこと、でも、本質的に必要なことを課題として与えるのです。実は、それをノーベル賞を量産するアイビーリーグの入試では出しているのです。そして、日本のトップ大学の入試改革を後押しする高大接続プラン、SGUです(このあたりは「アクティブ・ラーニング入門」と「2020年、激変する大学受験」に書きました。

 『学び合い』では「生き残る」と「これからの社会を生み出す」を矛盾無く両立させる課題は出来ます(そのあたりは「課題づくり入門」の第五章に書きました)。ポイントは教師が予想し、そのラインにのせるものでは無く、教師も分からないことを子どもに与えるのです。

 私のゼミの目標は「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、一人も見捨てない教育・社会を実現する」です。ゼミ生がありがちなことを提案したら、思いっきり馬鹿にします。私が思いつくレベルのことならば、もっと上を目指せと尻をたたきます。そして、私の発想を超えたとき、涙を流して感謝します。