■ [大事なこと]Society5.0の教育

「個性化」「総合化」「非同時化」「分散化」「適正規模化」「地方分権化」のSociety5.0に共通する学力なんてありません。それを想定し、それを保証する全ての教育はSociety5.0における教育になり得ません。自己矛盾です。
では、教育で国民全員に何を保証すべきなのでしょうか?
学力ではありません。
繋がりです。
他人に繋がれば、他人の知識・知恵を活用できます。それによって大容量でマルチCPUの能力を獲得できます。これがあれば、重度の知的な障害を持つ子であってもSociety5.0活躍することが出来ます。国民全員が人工知能やプログラミングの専門家になる必要性はないですし、そもそも、そんなのは不可能です。
では、繋がりを保証するには何が必要でしょうか?
コミュニケーション力だと思われがちです。
違います。
たしかに、それがあった方がいい。でも、国民全員が座談や交渉のエキスパートになる必要はない。そして、そんなのは不可能です。ホモサピエンスの本能と能力に基づき150人(ダンバー数)と繋がれればいい。これだったら誰でも出来ます。だから、つながる機会さえ与えればいい。『学び合い』だったら教師の管理下で安全に、年間を通して週5日間30時間の教科学習の時間を繋がる機会とすることが可能です。
でも、それが出来ない人もいます。例えば、重度の自閉症の人。でも、その人を仲間だと思い、それが自分にとって得であると理解出来る集団を実現することは可能です。『学び合い』では「一人も見捨てないことが自分に得(徳ではありません)である」ことを語ります。そのための中長期のヴィジョンを持っています。
私は7、8割の子どもが救われる教育ではなく、100%の子どもが救われる教育を目指しています。その結果が『学び合い』です。
以上の様に考えているので、学力の保証という囚われから易々と脱することが出来るのです。
追伸 あと育児と介護は学校教育で必修にすべきだと思っています。これからありとあらゆるサービスは人工知能+ロボットに代替えされるでしょう。でも、育児と介護は肉親がすべきだと思っているからです。
追伸2 実は、もう一つあります。書くのがためらわれるのですが、性行為を含めた交際です。何故なら、生殖行動は人工知能+ロボットに絶対代替えできない唯一の行為ですから。(もちろん、これは理論的な話しです。我が子を持つ親の立場で考えれば、私自身が首をかしげますから)
■ [大事なこと] 公正に個別最適化された学び

政府の掲げるSociety5.0は、狩猟社会、農耕社会、工業社会、現代の情報社会を越えた先にある段階です。AI、ビッグデータ、IoT、ロボティクス等の先端技術が高度化し、あらゆる産業や社会生活に取り入れられた社会です。
その時代を生きる子どもたちに、共通して求められる力は
1.文章や情報を正確に読み解き、対話する力
2.科学的に思考・吟味し活用する力
3.価値を見つけ生み出す感性と力、好奇心・探求力
だとしています。これを実現するために文部科学省は
1.「公正に個別最適化された学び」を実現する多様な学習機会と場の提供
2.基礎的読解力、数学的思考力などの基盤的な学力や情報活用能力をすべての児童生徒が習得
3.文理分断からの脱却
を推進するそうです。
普通の人にはすんなり受け入れられる文章ですが、私には理解不能です。説明します。
現実に子どもを教えている皆さんに問います。
あなたが教えている子どもたちの中で以下を全員が獲得できると思いますか?
1.文章や情報を正確に読み解き、対話する力
2.科学的に思考・吟味し活用する力
3.価値を見つけ生み出す感性と力、好奇心・探求力
無理であることは自明だと思います。だから、それらを獲得できない子どもがSociety5.0で生きるために何が必要かを明確にしなければならないのです。ものすごくわかりやすく表現するならば、重度の知的障害がある子どもがSociety5.0で活躍するには何が必要かです。残念ながら文部科学省の文章を読んでもそれが見えません。
さらに、今後のSociety5.0においてイノベーションを起こし、リードする人材の
1.文章や情報を正確に読み解き、対話する力
2.科学的に思考・吟味し活用する力
3.価値を見つけ生み出す感性と力、好奇心・探求力
を普通の教師が指導できると思いますが?
以前、創造性教育を調べたことがあります。結果、わかったのは「創造性教育は不可能だ」ということです。なんとなれば、これこれこうすれば創造性が育つ、というものがあったら、その創造性は創造性ではないという自己矛盾に陥るからです。
つまり、教師になるであろう程度の知的レベルの
1.文章や情報を正確に読み解き、対話する力
2.科学的に思考・吟味し活用する力
3.価値を見つけ生み出す感性と力、好奇心・探求力
が育てられるかもしれないというのが最大限で、国民の大部分にはフィットしないのです。
さて、手段として
1.「公正に個別最適化された学び」を実現する多様な学習機会と場の提供
2.基礎的読解力、数学的思考力などの基盤的な学力や情報活用能力をすべての児童生徒が習得
3.文理分断からの脱却
を推進するそうですが、どんな場を提供したとしても、教師が指導するという現状の教育では不可能であるのは自明です。が、そのような考えを持っている人は多くはないです。子どもという子どもは一人もいないのに、かってに理想的な子どもモデルを押しつけるしかありません。
また、「基礎的読解力、数学的思考力などの基盤的な学力や情報活用能力をすべての児童生徒が習得」を全国民に与えられるなんて無理なのは教師だったら自明だと思います。
さらに、失礼ながらパロディのように感じるのは「文理分断からの脱却」です。もし、これを一律に求めたら、数学の才能に恵まれ、フィールズ賞を狙える人材に枕草子を学ばせることが「「公正に個別最適化された学び」を実現する多様な学習機会と場の提供」なのでしょうか?
私にとって小学生でもわかるロジックだと思うことが分からないことが分かりません。分かる人、教えてください。
もちろん、報告書の中には
・学校がこれまでの一斉一律の授業のみならず、個人の進度や能力等に応じた学びの場となること
・同一学年集団の学習に加えて、異年齢・異学年集団での協働学習が拡大していくこと
など、「学びの在り方の変革」を打ち出しています。
これを読めば『学び合い』の実践者だったら「ジャストミート」と叫びたいですが、最終的な改革の方法が
1.「公正に個別最適化された学び」を実現する多様な学習機会と場の提供
2.基礎的読解力、数学的思考力などの基盤的な学力や情報活用能力をすべての児童生徒が習得
3.文理分断からの脱却
であるならば、何の変化もないでしょう。基礎的・基本的な学力の保証という囚われから脱してほしいな。Society5.0にはそんなのないのです。