■ [大事なこと]考えと方法
『学び合い』は考えであり、方法のレベルと違う。このことを、どうやって例示したら良いかを考えました。
例えばです。
野球はチームプレーを学べます。サッカーもチームプレーを学べます。
野球でチームプレーを学べる人が、サッカーを学びサッカーでもチームプレーを学べることを理解したとします。そうすると、子ども達に野球もサッカーも学ばせたいと思います。方法のレベルです。
野球でチームプレーを学べるのは何故かと理解した人は、サッカーでチームプレーを学べるのは当然であることは自明です。そういう人は、野球でよりチームプレーを学べるにはどうしたらいいかを理解します。そのことを理解した人はサッカーでも、よりチームプレーを学ぶにはどうしたらいいかを理解します。だから『学び合い』の会では様々な学校段階、様々な教科の教師が、普通に会話できるのです。サッカーだ、野球だのレベルだったら話せません。
野球をやってもチームプレーは学べないチームはありますし、サッカーをやってもチームプレーを学べないチームはあります。もちろん、多くの野球、サッカーの部活ではチームプレーを学べます。しかし、それを指導する顧問がチームプレーは何なのかを理解しているかは危ういと思います。
達成したいチームプレーと競技は次元が違います。
私は初心者のために野球でプレーの仕方を例示します。しかし、それは方便なのです。
競技が示すのはルールです。そこにチームプレーを求めるのは考え方なのです。
たとえ話は、あくまでも、現象の一部を切り取って単純化しています。
■ [大事なこと]方法
『学び合い』は考え方です。これが分かれば他の方法と同列に比較できなくなります。
どんな方法でも、全員達成を求めれば『学び合い』になりえます。全員達成を求めれば、折り合いを付ける必然性が生まれます。これを子ども達に納得させるためには、学校教育を超えた今後の社会で今日の授業を理解出来るようにならねばなりません。
どんな方法でも、子どもにそれを改良することを許し、奨励するならば『学び合い』になりえます。一方、それを許さなければ、望まなければ『学び合い』にはなり得ません。子ども達を有能と思っていないからです。
古くからの『学び合い』の実践者がいます。酒井式の実践もしています。その人は、酒井先生に「子どもに改良させてもいいでしょうか?」とお願いしました。酒井先生はニコニコと許されました。酒井先生は子ども達を有能だと分かっておられるのだと思います。子ども達が酒井式を改良することを許され、望まれているならば、それは『学び合い』です。
方法と考えは同列に並べられません。
■ [大事なこと]普遍的
以前より、『学び合い』を取り入れている企業はあります。上越に研修に来たり、各地の『学び合い』の会に参加する企業の方はいます。私に関しても、私がFBで繋がっている人の2、3割は学校関係者以外です。講演に呼ばれることもあります。
『学び合い』のセオリーは普遍的です。ホモサピエンス(およびそれ以前)が数百万年の時間の中で洗練した生存戦略です。というと難しそうですが、ようは群れで生き残るという戦略です。ただ、ホモ族の本能に刻みつけられているのは地縁・血縁関係の小さな小集団(ダンバーによれば150人程度)の群れが限界です。『学び合い』は教育によって、それを拡大できることを明らかにしています。