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2001-03-31

[大事なこと]分からない 22:40
 私が高校2年の3学期で、進路をどうするか悩んでいる時の話です。職員室に行って、数学の先生に、「数学は、もう全部分かっているのに、大学に行って何するんですか?」と質問しました。もちろん、先生は唖然とした顔をされていました。

 その当時の私は、本気で数学はもう完成されしきっていると思っていました。だから、大学でも、高校と同じように、誰かがずっと以前に明らかにしたことを、勉強するんだと考えていました。数学以外の科目も、多かれ少なかれ、それに近いイメージを持っていました。

 高校での勉強は、誰かがずっと以前に明らかにしたことを、勉強する連続です。自分自身が何かを発見するということを想像できなかったのも当然のように思います。ところが、生物の先生の授業はひと味違っていました。その先生の授業では、「ここから先は、今でも分からないんだ」と話されることがたびたびありました。それを聞いた私は、そんなにいっぱい分からないことあるならば、自分にも何かが発見できるのではと感じました。そのため、「生物学」の大学に進学しました。

 大学に入って、遅ればせながら、どんな学問も、分からないことだらけであることを気づきました。それなら、もっと「これこれのことは、まだ分からないんだよ」と高校教科書に織り込むべきなのではと感じています。このことは、ある教科書会社に提案しましたが、いまのところ採用はされていません。

 

■ [ゼミ]私の失敗 22:40
 大学で生物学を学び始めると、化学の知識が必要であることが痛感しました。そこで、化学の本を読み始めると、物理学の知識が必要であることが分かりました。ところが、ある程度学んでいくと、それらを理解するためには数学の知識が必要であることが分かりました。そこで、解析学、線形代数学の本を読み始めました。20歳そこそこの学生の自習ですから、たいしたレベルではありませんが、厳密な論理を積み上げていく数学の虜(とりこ)になりました。さらに、解析学、線形代数学を理解するために、位相空間論、集合論の本を読み始めました。一層抽象的な内容は、私を別世界に連れて行ってくれます。そんなこんなで、生物学を専攻している学生にも関わらず、読んでいる本の殆どは数学と物理学という状態になってしまいました。

 学年があがり、何を研究しようかと考え初めて、気づきました。それは、自分が今知っている数学と物理学の知識と、研究しようとする生物との間にギャップが多すぎで、直接利用できないことに気づき始めました。もちろん、数学や物理学の手法をそのまま使い、対象として「生物」を研究する分野もあります。当時読んだ本の中には、代数学の群論や位相幾何学のカタストロフィ理論に基づき、発生学を研究しようとするものがありました。しかし、何かが違うなと感じていました。簡単に言えば、「生物を研究したい」というより、「数学や物理を生かした研究をしたい」という本末転倒なものを感じました。なによりも、「使えるかもしれない可能性」は長々書いているんですが、実際に使えたという実例が無いんです。

 大学3年の最後に、伊豆の下田で臨海実習がありました。そこで、数日間徹夜して、ウニの卵がどのように変化するかを観察しました。ウニの発生に関しては、発生学の本で知っていました。ところが、実物の卵の美しさ、神秘は愕然とさせました。それを数日見る内に、私の心の中にあった「数学」、「物理学」に対する「生物学」への劣等感が消えてしまいました。そして、「何故、数学や物理学の本を読むのではなく、生物自体を直接観察し、生物学の本を読まなかったのか?」と自分の失敗に、遅ればせながら気づきました。

 基礎を学ぶことは間違いではなかったと思います。しかし、研究したいことは何かということを忘れてはいけないと思います。それを忘れて、基礎を学ぶこと自体を目的とした場合、際限がありません。人間の能力と時間には限りがありますから、基礎を学ぶとしても、立脚点より一段階だけ基礎を学ぶにとどめるのが妥当なのではないでしょうか?それも、「どう使えるか」に着目し、多くの部分はブラックボックスにすればいいと思います。

 

■ [う~ん]初等教員養成課程において何故、科学を学ばなければならないのか? 22:40
 今、教育学部に対する風当たりは強いものがあります。特に、教科専門に対する批判の嵐は厳しいのが現状です。例えば、「小学校の先生を養成するために、何故、微積分を用いた電磁気学が必要なのか?」という批判があります。それに対する反論としては、「電気を教えるのだから、その基礎となる電磁気学を学ぶのは当然だ」があります。しかし、基礎だから学ばなければならないという論法だと、学ぶ量は際限が無くなります。言うまでもなく、小学校で教えるのは電気だけではなく、物理だけではなく、理科だけでもありません。国語も、算数も、社会も、同じ論法を展開したならば、初等教員養成課程の大学は100年たっても、卒業できません。

 また、「一つのことを、しっかり学ぶことによって、いかなる方面にも対応できる」という反論もあります。いわゆる、「一芸に秀でれば全てに通じる」という論法です。しかし、そうならば、別に電磁気を学ぶ必要性はありません。茶道でもいいはずです。会席料理でもいいはずです。また、牛のと殺、解体でもいいはずです。しかし、寡聞にして、そのような初等教員養成課程を持つ大学を知りません。電磁気を教える理由は、理科という教科があるからです。そうであるならば、小学校理科との関連性を、明確に示す必要があります。

 しかし、「初等教員養成課程で学ぶ内容に適切であるか?」という問いに対して、絶対的に答えられる方法は無いと思います。これは、教科専門に限らず、教育学、心理学、また、私が専門としています理科教育学においても同様です。何故なら、ある一つの学問が欠けたからと言って、小学校の先生には絶対なれないというものは無いからだと思います。

 ようは、どんなに小学校とかけ離れた内容であろうと、学生や社会の人が「それでいいんだ」と感じればいいんだと思います。つまり結果オーライなんです。そのためには何が必要かと言えば、我々大学人は、教えている内容に関して説得力のある説明が出来なければならないと思います。自分がいくら正しいと思う理由であっても、説得できなければ駄目だということです。自戒。自戒。