■ [大事なこと]ほめること(その2)
「ほめること」をアップしたらMさんから下記のメールが来ました。補足すると、Mさんの研究は、できるだけ教えないことで何が起こるかを見る研究を昨年からやっている現在西川研究室に所属されている院生さんです。このメールで、特に二つのことを再確認させていただきました。
第一は、「決して私の狙った通りに動いたことをほめたのではありません。むしろそれ以上のことを連発する姿に感動したのです。」です。子どものすごさを見ることによって、本心から感激・感謝の気持ちが起こります。もし、子どもをがんじがらめにし、作りすぎた授業の中で、教師の思ったとおりの動き方をする子どもを見て、自己満足していては、自分のすごさに酔うことは出来ますが、子どもたちのすごさに感激することは出来ません。
第二は、「見てること」の大事さです。このことは、ゼミでは共有している感覚なんですが、今まであまり書いたことがありませんでした。実は、「誉める」ということすら本当に必要ありません。そこに、教師がいて、にこにこしている。それだけで十分です。
『「ほめること」についてですが、「子どもに感謝感激・・・」というのはわたしも昨年度のまとめで書きました。
だから「それはむずかしい」と言われるのにはやはり反論したいと思います。
現場の人達からしてすぐに「むずかしい」というのはわかります。
しかし、それは教師が学習成果を計る絶対的な物差しを持っていると教師や生徒、保護者や周りの教師や地域が思っているからではないでしょうか?
(「授」ける「業」と書く「授業」という言葉も同じ印象を受けるので私は「学習」と言う方が好きです。)
「教える」ことに中心を置く時間の中では,どうしても生徒の学習に細かく目を配ることができません。
(そんなことを言うとすぐに「そんなの失格!」と言われ、 「こうしてあれしてそうすればできないことはない」等と, スーパーマンにしかできないことやれといわれそうですが、やはり誰にもできません。だから今ががあるのです。)
昨年の現場研究で「教える」ことをやめたら子供達のすごさに出会うことができた。
そしてそれをじっくり見つめる時間ができたからたくさん感謝・感激することができたのです。
決して私の狙った通りに動いたことをほめたのではありません。
むしろそれ以上のことを連発する姿に感動したのです。
以前個人ゼミで「評価」で大切なのは「見てること」とおっしゃいましたが,それに尽きると思います。
私は子どもの力らを信じると同時に教師の力も強く時信じています。