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2002-05-08

[]ほめること 10:51 ほめること - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ほめること - 西川純のメモ ほめること - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日院生さん相手の講義で、昨年度の我々の研究室研究成果を紹介しました。その中で、教師は「いい、悪い」という評価をする以上に、「すごいな~」という感激・感謝をすることが重要ではないか?ということを話しました。その際、院生さん(現職教師)から、「ほめることは難しい」ということを教えてもらいました。即ち、ある子どもをほめると、外の児童・生徒から「なんで私はほめられないのだ?」という反応が起こってしまうことを、具体的な事例で紹介してもらえました。時間的にも全ての子どもを等しくほめることは不可能なので、ほめることは難しいという指摘でした。

 その話を聞きながら、なるほどな~と思いながら、何故がしっくりきませんでした。最初の引っかかりは「ほめる」という言葉で、その言葉には評価と同じような意味合いがあるように感じました。そのことを話すと、事例を教えてくれた院生さんもすぐに納得してくれましたが、感激・感謝にせよ、等しく行うことは出来ないため、やはり問題は起こるという指摘を受けました。その指摘にも、何故かしっくりきませんでした。何故しっくりできないのか、その場では分かりませんでした。家に帰って、ボーっとそのことを考えていたとき、私が何故しっくりしなかったのか気づきました。それは、何故、ほめられなかった(もしくは感激・感謝されなかった)子どもが、「なんで私は・・・」と思うのかということです。妬みは人間の本性です。だから、「なんで私は・・」と思うのは当然と解釈することも出来ます。そのため、なかなか、私の中にあるしっくり出来ない理由を自己分析できませんでした。でも、「なんで私は・・・」と感じるは、その子どもが、その授業における課題達成を目的としているのではなく、課題達成に対する教師の反応を目的としているためだということに気づきました。もし、課題達成を目的としているならば、教師のほめ言葉(もしくは感激・感謝)はおまけに過ぎません。課題達成による満足が十分にあるならば、「なんで私は・・・」と思う必要性はありません。少なくとも、学級経営上において深刻な事態を招来するほどのことは無いはずです。つまり、「ほめること」、「感激・感謝すること」が問題ではなく、教師が与えた課題達成が、子ども自身の目的になっていないことが問題なんです。そう気づいて、やっとしっくりきました。

[]学術的であることと実践的であること 10:52 学術的であることと実践的であること - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学術的であることと実践的であること - 西川純のメモ 学術的であることと実践的であること - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々の研究室では実践的であることを大事にしています。しかし、学術的であることを否定するつもりはさらさらありません。それどころか、我々の研究室での成果は、多くの学会の学術雑誌に掲載されています。その数は学会でも有数であると誇っています。

 教育研究歴史の中で、現場先生方に高く評価された実践研究者は少なくありません。ところが、それらの実践研究者学会において活躍する例を私自身はあげることが出来ません。例えば、「齋藤喜博」、「大村はま」といった超有名実践者はいますが、彼らが書いた学術論文を私は知りません。逆に、学会において高く評価された研究者は少なくありません。しかし、それらの研究者論文が、現場実践者に広く引用された例は極めて希なように思います。もちろん、私自身の勉強不足だから知らないという可能性はあります。全くいないと結論づけることは誤りであることは十分承知しています。事実、少数ですが現場においても学会においても高く評価された人がいることをあげることは出来ます。しかし、それらを勘案し、十歩譲ったとしても、実践と学術の両方で評価される人の数が極端に少ないことは事実だと思われます。

 おしかりを受けることを恐れず、誤解を受けることを恐れずに、優れた実践研究者、優れた学術研究者の違いを分析したいと思います。私の独断と偏見に拠れば、優れた実践研究者の著作からは、強烈な思い・願いを感じることが出来ます。その思い、願いが教師としての経験に根ざしているため、多くの教師が共感し、それ故に、高く評価されているように思われます。ところが、その強烈な思い・願いを共感できない別なタイプの教師もいます。ところが、実践研究においては、そのような別なタイプの教師を説得する努力をあまり感じることが出来ません。簡単に言えば、「分かる人には分かる、分からない馬鹿には永遠に分からない」という割り切り方を感じます。

 優れた学術研究者は、一定の学術研究の作法を心得ています。その作法とは、より確実に事実を伝える作法です。確実であることを大事にしますが、そのために分かりやすさを犠牲にする場合があります。少なくとも、分かりやすくするために、確実であることを犠牲にすることは学術研究の作法ではありません。例えば、数学集合論、イプシロン・デルタ論法は素人にとっては必ずしも分かりやすくはありませんが、確実ではあります。また、強烈な思い・願いを心に秘めた学術研究者は少なくありませんが、学術研究においてそれを全面に出すことは控える傾向があります。すくなくとも、確実であることを犠牲にしても、思い・願いを全面に出すことは学術研究の作法ではありません。結果として、確実ではあるものの、現場先生方に分かってもらえない、また、共感してもらえないという犠牲を払ってしまうことにも繋がります。

 私は学術研究なんてくそ食らえという教育研究(驚く無かれ大学においてもあります)は、従来の学術研究に対する反動結果といえ、心が狭すぎるように思います。「分かる人には分かる、分からない馬鹿には永遠に分からない」という割り切り方ではなく、分からない人にも分かってもらいたいという願いがあるならば、学術研究の手法を利用すべきと思います。少なくとも、私は大多数の子どもたちが救われる授業ではなく、全ての子どもが救われる授業を見出したいのですから、「分かる人には分かる、分からない馬鹿には永遠に分からない」という割り切り方は出来ません。

 また、実践研究なんてくそ食らえという学術研究にも共感できません。教育研究目的は、現実教育改善に繋がるべきですし、そのためには現場先生に共感してもらえなければなりません。そのためには、強烈な思い・願いが重要だと思っています。そのため、我々の研究室での研究は、先行研究である学術研究を出発点とはしません。それぞれの院生さんが持つ、経験に根ざした強烈な思い・願いを出発点としています。ただ、それに終わることなく、学術研究の成果を「利用」して研究を進めます。

 過去教育研究歴史が示すように、実践的であることと学術的であることは矛盾する場面が多いことも確かです。しかし我々は、実践的であり学術的であることを求めています。そのバランスを取る方法は、より多くの現場先生方に分かってもらいたいと願うことです。その最初の方法は、現場先生方が学術研究の作法を心得、その上で、自分自身(すなわち現場教師)が納得できる研究方法は何かを自問自答することだと思います。実に、漠然としてはいますが、その中でもがくほかありません。